2010年11月29日月曜日

フランス語再開、2カ月。

9月から再び勉強し始めたフランス語。アテネフランセでの初級講座も、今学期は残すところ3回となった。まだまだスタートしたばかり、と思っているうちにどんどん難しくなった。
第2外国語で習った、なんていう過去の蓄積にいつまでも頼れないことを日々実感している。そうは言っても、やはり、学生時代に使った文法書は役に立つ。当時の書き込みが以外に役立ったりするから、馬鹿に出来ないものである。
考えれば、第2外国語で学んだ当時は、EU統合前でユーロなど辞書にはない、またEメールなどもなかった。「@」マークのことを、L'arobase「アロバーズ」と読むことを、このたび初めて知った……。

また、語学学習と言えば、辞書が必需品だが、今は「電子」辞書を持っている人が多いようだ。私はまだ「旧世代」。紙の辞書で頑張るつもり。
少しずつでいい、とにかく根気強く学んでいきたい、と思う。
8日は、「プチテスト」がある。

2010年10月26日火曜日

植物の力?!

自宅から自転車で10分ぐらいのところに、巨大なホームセンターがある。建材や大工道具から自転車、家具、そして食料品まで揃えてあるジョイフル本田というお店だ。千葉県を中心に展開しているようだ。
昨年、新居に引っ越してから、休みの日など一人でぶらりと出かけることが多く、この前の日曜日もぶらりと訪ねた。ガーデニングコーナーをふらふらして気がついたことがある。店員もお客も、「いい顔」をしているのだ。いかめしい顔などしていない、子どもにがみがみ怒ったりしていない、店員に文句を言ったりしていない、……のである。
苗木を前にして、店員と客が、会話しているではないか。
店員:「こんな高い値段付けなくてもいいんだけどなあ。でも、これは長くもつから買得!」「この枝、切っておくね」
客:「うちの旦那はすぐダメにしちゃうのよね」
などなど。
「植物の力」(!?)を見せつけられた思いがした。
そういえば、生まれ故郷の田んぼや畑で、大声で怒鳴り合う光景など見たことない。誰もが、楽しそうに仕事をしている(と見えるだけかもしれないが)。少なくとも、穏やかな顔をしている!!
満員電車の無言の空間とは正反対の光景だ。
いや、私たちのほんとうの姿はこちらではないだろうか。一日どれだけの笑顔を見せられるか。一生のうち、どれだけ笑えるか。それが人間の価値を決めるのかもしれない。

2010年10月24日日曜日

日仏会館へ

23日は恵比寿にある日仏会館へ出かけてきた。日仏の研究者によるシンポジウム「政治と官僚の関係を問う」を聴講するためだ。偶然、インターネットで見つけたのだった。2日間にわたるものだったが、初日のセッションのみに参加。このセッションは、日仏の官僚制を歴史的に考察するもので、日本からは、牧原出先生が報告者として登壇した。明治維新から戦後にわたる日本の官僚制の歴史をわかりやすく解説なさっていた。
総勢80名ぐらいの参加だろうか。おそらく、研究者や学生が主で、素人は私ひとりだったかもしれない。
5時半ごろ中座。いそいで八千代の自宅へ。
ちょうどフランス語の学習を再会し始めたこともあり、そこかしこで繰り広げられたフランス語を耳にしたことはいい刺激になった。

2010年10月17日日曜日

名古屋で学んだこと

9日(土)から11日(祝)まで、名古屋に出かけてきた。市内の大学で開催される学会への参加が第一の目的。お世話になっている先生方が報告者として登場することから、前々から気になっていたものだ。直前までどうしようかと悩んだが(時間とカネ)、家族を説得して、思い切って行くことにしたのである。
著書を通じて名前だけ知っている先生方の声を生で聴くことは、とても有意義であった。また、名刺を交換させていただく機会はありがたい。
ただ、ここで白状するなら、研究者でない私のような者にとっては、一流の先生方の報告を聴くこと自体が、「脳力」を試されているようで、研究会というのは、いつもいつも自らの無知を実感する場となるのである。先生方の報告に追いついていこうと、もう頭がパンクしそうになること毎度のことである。そういえば、大学のときも、90分の講義が朝から4コマも続いたときには、もうクタクタだったことを思い出すのである。人間は、何も身体を動かしたときだけ疲れるのではない、と言うことを改めて感じるのだ。
そんなことを言い訳にして(?!)、10日(日)の午前中は、名古屋市内を駆け足で巡った。名古屋城のことは、金の鯱でもちろん知っていたが、よくよく考えれば城主は??? そんなことすら知らなかったことを恥ずかしく思った。そんなこんなで、文字通り駆け足で、尾張徳川家の勉強ができたのはよかった。
今回から何度か、この3日間で感じたことを書いてみたい。

2010年10月14日木曜日

10年振りのフランス語学習

フランス語を再び勉強し始めている。9月からアテネフランセに週一回(毎週水曜日)通っているのだ。週一回三時間。フランス人による直接教授法。それなりのものだ。仕事が終わってからその足で行って9時半まで。スタートしてから13日で1カ月が過ぎ、4回が終わった。これからが正念場、と考えて打ち込んでみたい。
大学に入って第2外国語で履修したのが20年近く前。その後、1カ月だけトゥールの語学学校に滞在したり、ラジオ講座で勉強したり、フランス語検定を受けたり、フランスへ旅して日常会話を楽しんだり、とささやかながらつながりを持っていたが、ここ10年ほどはぱったりと縁が切れた。おそらく、2001年の冬、妻と20日間ほどフランスを旅行したのが、「生の」フランス語との最後の接触だったかもしれない。前にも述べたが、妻はその後も断続的にフランス語に接しているため、常に身近なところにフランス語は存在した。しかし、なかなかペンを片手に勉強するまでには至らなかった。それこそ、昔の良い思い出、にしてしまおうと思ったこともあった。
でも、これから何年生きるか分からないが、せめてもう一ヶ国語ぐらい、触れておきたい、と思ったのである。通訳したり翻訳家になったりなどという大きな目標などではない。実際に、この1カ月間で、自国語以外に触れる効用は多いことに改めて気づくのだ。まず、フランス語を読む(まだ、見る、というレベルだが)ことが、楽しくなりつつある。そして、フランスのことを自然に気にするようになった。これは、日々の生活に潤いを与えると思う。視野が広くなる、と言えば一般的すぎるが、世界は広い、ということが実感できるだけでいい。

2010年9月12日日曜日

「こどものにわ」東京都美術館

江東区の木場公園内にある東京都美術館に、家族3人で出かけた。私は午前中は会社で仕事をしたので現地集合で。
「こどものにわ」という企画展示を観たかったためだ。
子どもが、実際に触れて楽しめる現代美術、ということ。「現代美術」だから「という言い訳でもないが」なかなか文章で説明は出来ないのが悔しい。自分の身体を動かし、それが作用して別のところにある何かが動く・・・・・、このことは子どもにとってすごく不思議でわくわくすることなのかもしれない、と思った。たとえば、こうだ。自転車をペダルを漕ぐと、その動力で発電する、ということを考えてみる。ボールを蹴ると飛ぶ、友達と相撲をとる、鉄棒で逆上がりをする、というのとは違う「達成感」があるのではないだろうか。
そんなことを感じた、小さな企画展だった。
ついでに常設展も観てきたが、観るものすべてに対し、子どもは「で、これはどういうこと?」という質問。ごもっともだ。私だって、同じ思いを持つが、ついつい「これは現代美術」なんてことで納得させようとしているんだから。
おそらくは、ただただ素直に作品に接し何かを感じればそれでいい、のだろうが、やはりいつの間にか、6歳のわが娘も「答え」を求めたい衝動に駆られてしまっているのかもしれない。

2010年8月25日水曜日

貧しさで命を落とす人がいる社会とは何か。

猛暑が続く今年の夏、暑さで命を落とす人のニュースが目に付く。熱中症にかかる、ということだが、その陰に「貧しさ」に原因があるという場合、何ともやるせない気持ちになる。20日付の朝日新聞1面では、長男と二人暮らしだった76歳の男性の死亡に関して報じていた。記事によると、二人の収入は父親の年金(2カ月で十数万円)のみで、月5万5000円の家賃を払うと残るのはわずかな食費のみ、電気、ガス、電話は10年ほど前から解約していたとのことだ。長男は15年前に腰が悪くなり運送会社を辞めていたという。
数日前から、体調の悪化を訴えていた男性のため、この長男は氷と薬を買ってきたという。わずかなお金を工面したはずである。その氷の冷たさに男性の顔は和らいだという。しかしその数時間後に息を引き取る……。
こうして、記事を読んで改めて築くのは、家賃の高さだ。もし、この5万5000円が他に使えたら、と考えてしまう。都市部の住宅費はあまりにも負担が大きすぎる。住宅問題の解決こそが第一ではないだろうか。住宅政策といった問題を本気で考えるべきかもしれない。国土交通省と厚生労働省という縦割りの影響だとしたら、これこそ政治の出番である。

2010年8月19日木曜日

私の道程21(10年間の東京生活に小休止――中締め)

1991年3月に高校を卒業し、予備校入学のため米沢から上京して以来、2001年4月に県庁職員として故郷に戻るまで、ちょうど10年間を東京で暮らしたことになる(もちろんその後再び上京し現在に至るのだが)。この10年の暮らしはその後の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。2010年の現在振り返ってもそう確信する。
お茶の水の駿台予備学校での日々、南大沢の真新しい都立大学での5年間、大新聞に入りたくてもがいていた時期、右も左も分からずフランスに1カ月滞在した最初の渡仏、神楽坂の小出版社での日々、どれをとってもその後の財産となっている。
「財産」となる経験って? どんな些細な経験でもプラスになるよ、なんていう答えは聞きたくない。私にはそう思えないのである。「思えない」というだけで確信はない。まさに2010年の今、その答えを探している。

この項で、ひとまず「私の履歴書」は中締めとしたい。72年に生まれた私の2001年まで歩みを、2010年の時点で振り返った。ここで書いたことは、ほんの一部。記憶からすっぽり抜けていること、思い出すのが嫌でわざと触れなかったこともある。また、時期が来たら「補訂」してみたい。

2010年8月17日火曜日

私の道程20(故郷へ戻る)

なかなか現状に満足できないのが性分らしく、小出版で法律書を作り続けることに少しずつ疑問を持ち始めたのである。かと言って、大新聞、大出版への移籍は厳しかった。とりわけ90年代後半はバブル後の不況であり、新規採用、中途採用は抑え気味であった。
時折、故郷の山形を思い出すこともあり、田舎でじっくり暮らすのもいいかしら、などと考えるようになったのである。たった3人の会社ということで、「刺激」がなく、自分を大きな舞台で試したい、という思いもあった。そういう点では職種にこだわりはなかったのである。
しかし、選択肢としては、マスコミ関係以外には、公務員しか思い浮かべることができなかったのである。消極的選択、といったものだった。
ちなみに、妻・みちよとはすでに一緒に生活していた。籍は入れずに、葛西のマンションで生活をしていたのである。当時、みちよは銀座の法律事務所で事務員として働いていた。二人とも一人暮らしをするより安上がり、そんな「合理的な」判断もあってのことであった。
そんなこんなで、2001年4月から山形県庁に勤めはじめることになったのである。前途洋々、という気分にはなれなかった。これで東京ともお別れか、といった感傷的な気分での引っ越し作業であった。県職員としての抱負? 的確にこたえられない自分がそこにはいたのである。

2010年7月29日木曜日

私の道程19(無職のまま卒業、そしてメーデーの日(5/1)に就職)

96年末から97年にかけての時期である。
就職先が見つからないまま大学4年が終わりに近づきつつあったが、あまり切迫感はなかった。鈍感だったのかもしれない。大学入学の失敗、法学部への転部、など、ストレートに進む、ということがそれまで一度もなかったことも影響しているのかもしれない。
来年また新聞社に挑戦しようかな、それとも公務員でも受験しようかな、そんな感じだった。
3年時に転部したばかりであったから、卒業までの必要単位もあり最後まで大学には通っていた。もちろん、卒業旅行、なんていう雰囲気ではなかった。
しかし、無事卒業、となった途端、急に自らを顧みたのである。
4月に入り「無職」になった焦り、である。確かに6月の公務員試験を目指して勉強してはいた。だが、そもそも、新聞社なのか、公務員なのか、どちらにも気持ちが固まっていないのである。たとえ合格しても実際に働くのは1年後、そしてそもそも合格の保証はどこにもない……。
そんなとき、新聞の求人広告が目にとまったのである。たった3行の求人。「悠々社」という耳にしたことのない出版社。社会科学書の編集、という一点に気がひかれたのだろう。思ったら行動あるのみ。履歴書をさっそく送ったのである。
それからはもう早い。面接、即採用。ついこの前まで、新聞社だ、公務員だ、なんて言っていた人間がたった3人の出版社へ入ることにしたのであった。何がそうさせたか。
恐らく、他者との繋がり、を求めたのであった。法学部に移ってから、ひたすら走っていた。それこそ、他者に勝つことだけに集中していたのであった。そして、自分の力不足をただただ認識せざるを得ない結果の連続であった。理学部時代の友人は、一足先に就職したり神学したり。心から話せる大学の友人は法学部におらず、就職については孤独な戦いだったのである。公務員を進路に考えてからは、ひたすら問題集との格闘・・・。
卒業した瞬間、全くの肩書のない人間になったことを「恥じた」のである。親の仕送りにだけ頼っていいのか、何も生産活動に従事していないではないか、そんな思いだった。そんなときに、悠々社の求人が目にとまり、面接に出かけたとき、S社長との面談は、自分が社会に求められている、そんな思いにさせたのである。何もかも自信を失っていた私の話をS氏は真剣に聞いて対応してくれた。まさに大人の対応だった。一人の人間として見てくれたのであった。そうだ、会社の規模なんて関係ない、自分が求められているところでやればいいではないか、そんな気持ちになったのである。
5月1日のメーデーが出社日。50歳を過ぎたばかりの社長、30代半ばの経理の女性、そして私の3人の小さな会社であった。
出版に興味はあったものの、何ら予備知識はない。走りながら覚えろ、そんな指導方針だった。いきなり、本多勝一さんの本を担当。入社数日後には本多さんと打合せである。無謀なことをさせるものだ。でも私は嬉しかった。本多さんに会える、ということよりも、S社長が、私をそのように一人前の人間として扱ってくれたことに対してである。
その後、私は紆余曲折の歩みをし、今はまた本の世界にいるが、その基本はすべてS氏から学んだ。校正の仕方なんていう実務的なことは当然だが、人との話し方、手紙の書き方はもちろん人間としての振る舞いまで彼から自然に教わったことは実に多い。知らず知らずにS氏の影響を受けていることを、15年以上たっても感じる。

2010年7月14日水曜日

私の道程18(大学3,4年。就職先決まらぬまま卒業へ)

無事、法学部政治学科への転部を果たした。直前になって、本当に大丈夫だろうか、なんて遅まきながら不安になった。どこにも保障はないのだから。学部事務室の職員のかたに直接「合否」を尋ねた気がする。まさか、掲示板での発表などはなかったはずだし。
4月になったらほんとうに怒涛の時間割だった。普通の人ならある程度の必修科目は1,2年時に履修済みのはず。政治系の科目はまだしも、法律系の必修科目はたいへんだった。基礎が分かっていないわけだから。当時はとにかくジャーナリズムの世界に進みたいという一心で、法律系科目は軽視していた。民法、刑法をきちんと学ばなかったのは後々悔やまれるのだが、憲法(石川憲治先生)、行政法(兼子仁先生、磯部力先生)、国際法(森田章先生)などは手元に受講ノートが今でも残っている。石川先生の憲法は「高尚」だった。兼子先生の行政法は、「行政法は図解可能」ということで、きれいな板書とともに分かりやすかった。
政治系の科目はほぼすべてを受講した。半澤孝麿先生の西洋政治思想史ゼミに入ったが、それこそ右も左も分からず毎週土曜日のゼミに参加した。登山を趣味とする半澤先生の提案で、ゼミ終了後にその足で高尾山へ訪ねたことも思い出のひとつである。「民主主義」をテーマにしたものだったが、ジョン・ダン『政治思想の未来』を皮切りに、トクヴィルの『アメリカの民主主義』、シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』などを講読した。この手の本を読むのは生まれて初めてだったかもしれない。
当時の都立大は、昼夜開講制といって、昼間部(A類と称していた)の者も夜の講義も受講できたので、朝から晩まで時間割が埋まった。最後の授業が終わるのが21時10分だったかと思うが、当時は人影もまばらで開発途上だった、八王子の“奥地”南大沢駅からアパートのある下高井戸までの京王線の車中は、疲労感や寂しさよりも、「今日も勉強したなあ」という満足感のほうが勝っていたような気がする。
途中から入り込んだということもあり、法学部内に特定の友人が出来なかったことが、唯一のそして最大の心残りかもしれない。
前に述べたように、ジャーナリズム界への進路を第一に考えていた。マスコミ志望者は、当時でさえ、大学3年の秋ごろから準備をしなければいけなかった。ただ、3年時に内定、なんていうことではなく、あくまで4年の春の試験へ向けた勉強会への参加、と言ったらいいのだろうか。マスコミ対策講座、と称した作文の書き方練習などである。これは勉強になったし、刺激になった。最初のころはまったく書けないのだ。情けないくらい原稿用紙の升目が埋まらなかった。みんなで読み合いながら講師の講評を聞くわけだが、今にでも記者になれそうな人がいるわいるわ。でも、良い文章を読むことで、コツ、といったものを掴んだような気がした。例えば、「わが国の100年後」なんていう題で800字を書く場合、決して大上段に構えた内容にしてはいけない。自らの経験などに引き寄せて、具体的な事柄から書き起こすのである。例えば、100歳の祖父母がいれば、彼らを題材に、、、といった具合である。
大学4年の5、6月の土日は、各新聞社の試験で埋まった。1次の筆記で落ちた社もあれば、2次、3次の面接まで進んだ社もあった。しかし、結局どこも受からずに秋の試験も終了したのであった。

2010年7月7日水曜日

私の道程17(トゥールでの1カ月)

大学3年の夏休みを利用したフランスへの短期語学留学は、私にとって初めての海外渡航となった。成田空港に行くのももちろん初めて。一応、APEFという団体での渡航だから、集合場所などを定められての行程でった。トゥールへの留学組はおよそ20人ぐらいだったと思う。だいたいが同年代。しかし、私以外はすべて女性。引率として、フランス語の教師がついていくというシステムだったが、われわれには青山学院の石崎晴己先生が引率して下さった。学生と1か月も行動を共にして下さったのである。今から振り返れば、藤原書店から定評ある訳書を次々に出され始めるころで、お忙しい合間をぬっての「お仕事」だったのではなかろうか。
さて、パリに数日間滞在し、一路トゥールへ向かった。
トゥールでは、語学学校のそばにある学生寮に寝泊まりした。美しい街並みはすぐに気に入った。プラス・プリュムローと呼ばれる広場を中心に街が形成され、徒歩でぐるりと廻れる。パリの喧騒とは異なり、中世にタイムスリップした感じすらあった。テレビもない生活だったため、なおのこと、そう感じたのかもしれない。当時はパソコンもインターネットもないわけで、日本のことは全く頭から除外されたのであった。日本で何が起こっているのかなど全く分からなかったのである。もちろん、国際電話をかけたのも1,2度程度。そういう環境におかれたこと、今から考えると貴重なことだった。
ところで、肝心の授業である。クラス分けの試験をされて、即授業開始。文法の知識があったから、ペーパー試験は恐らくそれなりの点数を獲得したのかもしれない。実力以上のクラスだった。隣はメキシコ人の女性。同世代で、将来はアフリカで国際協力の仕事をしたいということだった。確か、ペリラという名で、今でもはっきりと彼女の顔が思い浮かぶ。小柄でいつもスニーカーを履いて闊歩していた。
1カ月はほんとにあっという間だった。ちなみに、フランス語のレベルがその後どうなったかは問わないでほしい(いつかもう一度勉強をしようと考えてはいる)。
夕食はすべて外食だった。たった一人でビストロに入ってメニューを見て注文する、ムッシュが「ボナペティ」と美しい料理を運んできて、「トレビアン」と満足げに笑顔で御礼をする……それらの行為がいつの間にか普通にできるようになった。ワインを当然のように毎晩口にしていたような気がする。
たった1か月のトゥール滞在だったが、数日間だけの旅行やパック旅行では得られない経験だった。何より、街を行き交う人々の笑顔は忘れられない。生活を、日常を楽しんでいる雰囲気が全身から湧き出ているようなのだ。ちょっと大げさかもしれないが……。パン屋、タバコ屋の店頭で会話を楽しむ人々、昼間から広場のテラスでワインを飲む老夫婦。市場で野菜を買うにも互いに目と目をあわせ、「このリンゴは甘いよ」なんて声をかけられるのは普通の出来事であった。しかし、コンビニでの買い物が普通になっていた私にとっては新鮮だった。生まれ故郷の山形でさえ、そんなのんびりした雰囲気はないのであったから。
おそらく、15年たった今でもトゥールの街並み、生活者の笑顔はそのままではないだろうか。
トゥールのことで付け加えるとすれば、妻みちよとはここで知り合ったことになる。学習院大の仏文科の学生として参加していたのだが、何気ない会話をしたのが始まりで、そのまま現在にいたっている、というわけである。
彼女のほうは、何とか今もフランス語を続けている。
いずれ、娘を連れて3人でトゥールを再訪したいと念じている。

2010年7月5日月曜日

私の道程16(フランス(語)との出会い、そしてトゥール行き)

第2外国語として、フランス語を受講した。これは、予備校時代、「数学科ならフランス語かな」、なんていう予備校講師の話を真に受けて、何の迷いもなく選択したのだった。英語など決して得意科目でなかったが、語学の勉強そのものは好きだったので、1,2年時はそれなりに勉強した。授業が面白かったということもある。
1年時の担当が、宮下志朗先生、井田進也先生という一流の先生だったことも多分に影響している。お二人とも、理科系の学生だからと言って決して手抜きせず、丁寧にフランス語の基礎を教えて下さった。フランスという国が一気に身近に感じられたものである。お二人の博覧強記ぶりは、授業からも感じられた。宮下先生が東大に移られて、テレビなどでも御活躍なさっている姿は、授業での雰囲気そのままである。中江兆民研究でも有名な井田先生の授業は、時に、「さくらんぼの実る頃」(Le Temps des cerises)などのシャンソンを一緒に歌ったりするなどフランスに一歩も二歩も近付く気分になったものだ。2年時の担当は、窪川英水先生と藤原真実先生だった。窪川先生の授業は、フランス映画を見ながら、フランス人の生の発音に触れるというもので(当時『ふらんす』で映画の対訳コーナーを連載なさっていたと記憶している)、ロマーヌ・ボーランジュなどの女優の名を知るきっかけになった。藤原先生は、当時まだ専任講師ということだったが、今は准教授として都立大(というか首都大)で御活躍のようである。
さて、そんな素晴らしい先生の授業を受けたのに、単位を取るためだけ、と考えるのはもったいなかった。語学のひとつはものにしたいな、という思いもあった。そんな時の転部の決心。「法学部生への準備期間」ということで、時間はたっぷりあったから、アテネフランセへ通うことにしたのである。NHKテキストの裏にある広告をみたのだと思う。誰に勧められたわけでもなかったが、毎週土曜日の週1回、4月から通い始めた。文法はある程度習得済み、ということで、授業には十分ついていけた。これに気を良くして、夏休みには、フランスへ、と、またまた思い切った決断をしたのである。海外に一度は行っておきたい、という思いもあった。当時はバブル崩壊したとはいえ、まだまだ海外旅行ブームといったものがあった。昨今の内向きの日本社会、というイメージとは全く異なり、特に女子学生の卒業旅行は海外、と相場が決まっている雰囲気だった。それこそ、映画だって邦画よりも洋画が常に人気上位であり、大学の新設学部は「国際」と冠するものが多かった。
夏休みの1カ月を利用して、トゥールという街に滞在したのである。APEFというフランス留学を支援する団体を通しての申し込みであった。高校の世界史で「トゥール=ポワティエ間の戦い」と聞いたことがある、という程度の知識でのトゥール行きであった。1カ月間、学生寮に寝泊まりしながらの生活であった。

2010年6月21日月曜日

私の道程15(数学科から政治学科へ)

3年になってすぐだと思う。数学科でほんとうにいいの? という不安、不満が頭に浮かんだ。授業が数学一色になったものの、数学の楽しさ、といったものは感じられないままだった。漠然と頭に描いていた数学教師の道についても、その熱は冷めつつあった。むしろ、社会問題への関心が強くなり、将来はジャーナリズムの世界に進みたいと考えるようになっていたのである。当時、朝日新聞で編集委員として活躍していた石川真澄さんが、理系の出身(九州工業大学)だったということもあり、数学科を卒業してそれを武器にジャーナリストに、なんていう夢を描いていたのだ。興味関心の向くまま雑多な本を読んでいたものの、それが深い思考を伴うものでなかった面も自覚していた。好きな勉強をしてその道に進めたらいいな、そういう単純な思いが日々強くなったのだった。
3年に進んだ途端、時間割から文系科目が消えた寂しさもあり、思い切って政治学への転科を決心したのであった。一度舵を切ったらその方向に進む、という性格がここでも現れたのだと思う。
「決心したら行動あるのみ」。理系から文系への転部は比較的緩やかなこと、書類審査が中心とのこと、でもすでに数学科の3年になっているため、もう一度法学部の3年にならざるを得ないこと、数学科に属するうちから法学部の授業は取れることなどなど、情報を収集したのだ。
このとき、いきなり相談させていただいたのが、それまで何の面識もなかった御厨貴先生であった。ジャーナリズムの世界に進みたい、政治学を学問として学んでみたい、だから法学部に移りたい、そんな単純な論法で自分の思いをぶつけた20歳の若者に、先生は、丁寧に対応してくださった。たしか、「ニューヨークタイムズレビュー」などを読むといいよ、なんてアドバイスもいただいた。そして、まだ数学科に在籍しながら、次年度の法学部への転部を前提にして、先生の「日本政治史」の講義を受講したのであった。先生の授業は、VTRを用いた授業で、視聴覚室が教室であった。当時からすでにご多忙であったため、時折休講もあったが、正月早々(確か1月5日)の、まだ大学がひっそりした中での補講があったことも記憶している。我々学部生にも熱心に教育をしてくださったことの証だと思う(残念ながら、正式に法学部に移ってから、御厨先生に、ゼミや講義で御指導を受けるチャンスはなかった)。
3年進級早々に転部を決意した私は、この1年を勝手に「法学部生への準備期間」などと位置付けた。つまり、転部を大前提にして、数学の授業は全く無視したのだ。授業は、上記のように「日本政治史」や「日本国憲法」などを受講した。かと言って、受講するにも限度がある(あった?)から、空白の自由な時間がたくさんあったわけだ。振り返れば、贅沢な学生だった。

2010年6月13日日曜日

私の道程14(二人の祖父のこと)

40近くになり、自分の性格や立ち居振る舞いはどこに由来しているのだろう、と時折考える。自分で思ったように行動してきた、誰からも左右されていない、などと強がったところで誰も信じない。節目節目での人との出会い、接触が、その人となりを創るのだろう。親、兄弟、恩師、友人、上司、等々。
ここでは、二人の祖父を、振り返ってみたいと思う。
明治生まれの父方の祖父(吉田新吾)と、大正生まれの母方の祖父(船山辰吉)には共通点が多い。新吾は、私が小学入学前に亡くなったから、一緒に話をした記憶はほとんどない。父や周辺から聞いた伝聞での祖父像でしかない。一方、辰吉は、大正14年生まれであり、私が大学を出るころまで存命だったから、未だに多くの思い出が蘇る。
その二人の祖父には、共通点が多い。まず、二人とも、農家の末男として生まれ、山形県立置賜農学校から師範学校を経て、地元の小中学校長を務めた。そして、お婿さん、であることも共通だ。それ以外にも、
・日本酒好きだが、決して泥酔することはない。チビチビ、盃で静かに飲んでいた。
・長身の細身で紳士的だった(二人とも168センチぐらい。同世代では大きいほうだ)。
・大声を出して人をしかったことは皆無だった。
といった人間としての振る舞い、外形も似ていた。
これは全くの偶然だろう。田舎の小学校の元校長など、権威ぶって、ちょっと小太りで、郷土の歴史などを滔々と語って、、、というのが一般的だ。そんな中、身贔屓でもなく、この二人は違って見えた。これだけは私のひそかな自慢である。
新吾も辰吉も、農学校出身なのに、教師になった。それぞれ、思うところがあったと聞く。農学校を出てすぐ、まだ20歳前に代用教員などとして教壇に立ち、そこで教師と言う職業に目覚め、師範学校で本格的に学ぶ、というルートである。
父方の祖父、新吾の蔵書は、農業関係のものが多かったらしい(私は直接知らない。父からの伝聞)。帝大の農学者が書いた、果樹栽培の本だとか。一方、母方の祖父、辰吉の蔵書は、哲学、文学中心。びっしり書き込みのされた、高坂正顕、河合栄治郎、阿部次郎、安倍能成等の本や、新約聖書、万葉集などなどが蔵に眠っていた。私が、大学に入り、辰吉宛に、「一般教養の「哲学」の授業が面白い」などと書いて送ったら、さっそく、出隆『哲学以前』が送られてきた。もちろん、昭和前期刊行のボロボロの箱入りの本。彼等がそれらをどれだけ理解し、また読み込んでいたのかはわからない。しかし、何がしかの「思い」があったに違いない。もしかしたら、彼らにとって、「学問」とは憧れに近いものであったのだろう。山形県の南部、飯豊町という農村から出た青年にとっては、県都、山形市で学ぶこと、それ自体が夢のようであった。後年、入院先の窓から、山形市街を見ながら、私に、戦前の山形のハイカラさを、懐かしそうに話したのは、そういう一時期を過ごせた幸福感を噛み締めていたのだろう。
こういった人は、当時の日本全国に同じように存在したのだろう。そうした人々が、この国の根っこを作っていたと考えるのは、短絡的すぎるだろうか。
もし、新吾と辰吉がまだ生きていたとして、胸を張って彼らと相対することができるだろうか、そう自問自答せざるを得ない。

私の道程13(大学生活のスタート)

1992年4月、東京都立大学理学部数学科に入学した。都立大が南大沢に移転して2年目の春だった。京王線南大沢駅から数百メートルにある広大な真新しいキャンパス。入学式のことなどはあまり覚えていない。数学科は、たった27人。高校の1クラスより小さいわけだ。すぐに顔と名前は覚えられる。少なすぎて、語学のクラスなどは物理、化学、生物、地理学の他の理学部との混合だった。理系ということもあり、当然に受講すべき数学と物理の科目があり、それに英語と第二外国語のフランス語を合わせれば、ほとんどは時間割が埋まった。数学、物理は予習、復習は欠かせなかった。ちょっとでもサボると全くチンプンカンプン。
“大学らしい”数学への憧れがあり、たとえば、デーデキントの『数について』(岩波文庫)などを父から譲り受けたり、『数学セミナー』の購読をスタートさせたり、と数学徒の道に一歩踏み出した気分に浸っていた。しかし、そんな悠長な雰囲気ではなかった。ひたすら高等数学を片っ端から頭に叩き込む必要に迫られたのである。積分記号(インテグラル)がいくつも連なる、高校の「微分積分」の延長であったり、はたまた群、環、位相空間、、、といったような高校数学とは比較しようもない世界がそこには無数に存在していた。そこに、「面白さ」を感じるなど、私には程遠かったのだろう。難しいなあ、そんなため息の連続。
サークル活動はしなかった。運動系などは全く念頭になく、かと言って音楽、絵などへの志向もなかった。友人のM君といろいろと物色したが、これ、といったものがなく、どこにも入らなかった。友人を作る手段、として考えた一面があったが、そこまでして、という思いがあったためだ。実際に、M君という友人ができたから。
漠然とした思いとして、数学教師に“でも”なろうか、と考えていた。父と同じ道をという「安易な気持ち」と、研究者になれるわけないからな、かといって(バブル期の金融工学の影響で数学科出身の進路として一般的になりつつあった)金融機関への就職というのも考えにくかったたためだ。
教職課程も並行して受講したのはそのためである。日本国憲法、教育学、教育原理、道徳教育論などなど。都立大の教育学はある種の伝統があった。山住正己先生が最も有名だろうか。日本の教育学博士第一号であり、文部省廃止論などで論陣を張っていた。そして、国民の教育権論で有名な行政法学者の兼子仁先生もいらした。議論のないように立ち入るほどの資格は私にない。が、教育基本法が改定され、また、戦後65年を過ぎた今、もう一度、冷静に戦後の教育学を振り返る作業は必要だと痛感する(このことは別に稿を改めたい)。
大学1年、2年は、このように漠然と「数学教師の卵」と自らを位置づけていた。

2010年6月10日木曜日

私の道程12(充実した予備校生活)

予備校での一年間は、毎日が淡々とした生活であったが、充実していた。何ら不満もなかった。それは、「希望」を胸に抱き続けることができたからだったのではないか、と今になって思う。とにかく未来が明るく見えた。一日一日が、確かな一歩を踏んでいると実感できた。もちろん、それはあくまで幻想だったのかもしれない。が、人間にとって、前向きな思考が重要であることを、改めて認識する。
朝は、6時に起床。テレビがないからラジオを聴きながら登校の準備。もちろん、朝ご飯はなし。いや、コンビニのパンぐらい食べていたかな。東武伊勢崎線の越谷駅から、7時前の電車で出発。途中、北千住で千代田線に乗り換えて8時ちょっとすぎに駿台お茶の水校に到着。あとはひたすら授業を受け、夕方には帰宅。夕食は惣菜などを買って食べたり、外食だった。肉嫌いの私は、外食となると、だいたいメニューが決まる。まさか、寿司やてんぷら、ウナギなんて食べれるわけがないから、アジフライ定食、「肉抜きの」タンメン、などといった具合。ひとりで食堂に入ったことなど、山形では皆無。この一年間は、そういう意味でもすべてが初体験だった。
夜は、ひたすら机に向かった(はず)だが、死に物狂いで、という記憶はない。とにかく、予備校に行くのが楽しかった。勉強の合間の楽しみ、と言えば、「映画」だった。予備校で知り合ったO君に誘われたのである。それまで、「映画」なんて縁遠い生活だった。小学校の頃、母に連れられはるばる県都の山形に『南極物語』を観に行ったのが最初で、それ以降は本当に数える程度。それが、いきなり有楽町マリオン。いや、驚いた、ふかふかのソファに。彼は都立高の出身で、高校時代から伸び伸びと過ごしてきたことが明らか。視野が広かった。チェコの初代大統領にして劇作家のハヴェルの存在を教えてくれたのも彼だった。O君とはこの1年間とても楽しく過ごした。彼の家にもお邪魔したり、長電話したりと。
あっという間に受験シーズンが近づいた。当初は、地学系の希望だったが、この1年で数学科志望に変わった。父が数学教師であるということから考えれば「順当な」路線かもしれないが、やはり、予備校での授業がそうさせたのかもしれない。で、どこを受けるか。
「初志貫徹」で北大を受けるつもりだったが、東京での生活も捨てがたいという思いや、2浪は全体に避けたい、という切実な願いがあった。北大と都立大を受けることにしたわけである。そして、「理学部数学科」という名称が存在する都内の私大。つまりは立教と学習院に併願した((私のなかでは、「理」学部であることへのこだわりがあった。だから「理工」学部の数学科は選択肢になかった。今から思えば、まったく変なこだわり)。立教は、名著『零の発見』の吉田洋一氏、学習院は小平邦彦、彌永昌吉氏の伝統に惹かれたのである。
結局、都立、学習院、立教の3校に受かり、都立を選択。
充実した、という思いは、やはり、この満足した結果によるものなんだろう。そういう意味では、「受験生」というのは、結果でしか振り返られない、ある種悲しい、寂しい(いや、考えようによっては贅沢な)身分なのかもしれない。
いずれにしても、その後の生き方に大きな影響を与えたことは間違いない。
そういえば、受験時代、「宅浪」だけはやめよう、なんて言っていた。だって、「ヨシダ タクロウ」になるから。

2010年6月8日火曜日

菅総理の誕生で何を思う

菅総理が誕生した。総理が交代した、といったほうが分かりやすいかもしれない。
72(昭和47)年生まれの私が、「総理大臣」として「日本で一番偉い人」なんて言う形で認識したのは大平正芳氏が最初だったと記憶している(小学2年生頃か)。そう考えると、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、と18人も、「偉い人」を末端から眺めてきたことになる。菅さんが19人目である。ということは、恐らく(いや当然)、大臣はもっと代わっている……と思って、大蔵大臣だけ調べてみたら、大平内閣の金子一平氏から鳩山内閣の菅氏まで25人(ちなみに、私が記憶に残っているのは鈴木内閣のミッチー蔵相から)。権力者がこれだけ頻繁に代わることをどう考えたらいいのか、私には分からない。ただ、ひとつ気になるとすれば、私たち末端の人間までもが「評論家」に近づきつつあること。メディアのお陰だろうが、誰もが一家言持っている(と錯覚している)。
昔から、井戸端政治談議、床屋政談、などという言葉があるくらいだから、庶民が政治を語る姿は今に始まったことではない。
しかし、これが、シラケ、になるとすれば、やはり健全な姿ではない。「大きな時代の節目にいる」、と思いたいが、この言葉自体、湾岸戦争のころ、つまり私が選挙権を有したころから言われ続けているような気がする。
来年小学校に入る娘が、「ソウリダイジンって?」とか「テンノウヘイカって?」と聞き始めた。人生の先輩として親切に教えなくてはいけないと思いながら、分かりやすく伝えられずにいる。

2010年6月6日日曜日

私の道程11

予備校に入ったものの肝心の住まいを落ち着けなかった1ヶ月だったが、授業そのものは満足のスタートだった。いや、期待以上だった。
駿台の場合、座席が成績順に指定されていた(今の予備校はどうか知らないが、当時、座席が指定となっている予備校は珍しかったのではないだろうか)。私が入ったのは、国立理系αコース。端的にいえば、東工大クラスを目指す人たちの集まりだった。自然に周辺の人たちと会話するようになった。山形の片田舎の人間にとって彼らは初めて出会うタイプ。誰もが「大人」に見えた。建築家を目指して2浪目の人。都立高校時代から駿台に通っているという人、英語以外の外国語を高校の授業ですでに習っていたという人、ニューズウィーク誌を手にしていた人(当時、そんな雑誌があること、私は果たして知っていたかな?)・・・・・・。
そして何より、授業がすべて新鮮だった。これまでの常識が覆された。物理の山本義隆先生、数学の西岡康夫先生、英語の奥井潔先生、などは授業が何より楽しみだった。受験に直結、というわけではない。山本先生の微分積分を使った力学の解法は「美しかった」。西岡先生の「戦略的」「判断枠組み」などという言葉によっていただけかもしれないが、数学の本質を教えてくれた(事実、数学科への入学を決めた要素にもなったかもしれない)。英語の奥井潔先生、長身から語るサムセット・モームの短編の講義は、英語というより国語の授業だったような気がする。
ちなみに、山本先生が学生運動の闘士だったと知ったのはしばらく後だった。もちろん、彼の口から、物理以外のことが発せられたことはない。ひたすら問題を、黒板に解いていく。それを私たちはノートに取る。関西弁の混じった言葉で、式の展開を説明する、それに魅せられる、その繰り返しだった。
しかし、一度だけ、彼が教壇に上がらず、「数分だけ時間をくれ」といったことがあった。教室は何事かと静まり返った。91年のPKO国会のときだ。社会党の牛歩戦術のなか自民、公明、民社の賛成多数で可決したあの国会の翌日の授業だった。彼がどんな言葉で非難したのかはまったく覚えていない。ただ、「君たち受験生にもこういった問題について少しだけ考えて欲しい」、そんな趣旨だったと思う。
話が終わると、いつもの笑顔になって教壇に立ち「物理屋」の姿に戻った。青系のシャツとジーンズ、この格好は1年中を通してまったく変わらなかった。髪型も髭もまったく同じ。そんな風貌に理系志望の予備校生たちは、聞き入った。高校で習った物理はなんだったのか、そう思い知らされた。
その他、数学の秋山仁先生は、当時すでにTVなどで有名になっていたが、授業も分かりやすかった。そして、英語の室井光広先生は、数年後芥川賞を受賞することになる。

2010年6月5日土曜日

私の道程10

3月まで山形でのんびり過ごしていた18歳の私にとって、4月からの東京での生活は急激な変化であった。
駿台予備学校の寮は総武線下総中山駅近くにあった。テニスコートも併設した立派な寮であった。一人部屋で間口は1メートルもあったろうか。学習机と小さなロッカー、そしてベッドがあるだけ。孤独な感じがした。誰も知り合いがいないわけだから当然と言えば当然。
1カ月ももたなかった(耐えられなかった)。そう、寮生活に馴染めずにやめてしまったのである。もう少し「頑張れば」、と今になって思うが、当時はとにかく「ここを出なければおれの一年はおかしくなる」なんて思い詰めていた。携帯なんてない時代だから、連日、駅の公衆電話から実家へ連絡して親を説得。そして、4月の下旬には「脱出」。今思えば、父も母もそんな息子をどう見ていたのか、よく叱らなかったものだ。
「脱出先」は、中学時代の親友S.H君の家。当時、父上の仕事の関係で親子で久我山に住んでいた。そこに居候を決め込んだわけだ。家財道具などはない。とにかく鞄に荷物を詰め込んで、笑顔いっぱいで出た。もちろん別れの挨拶をするほどの付き合いはない。淡々と退寮したのである。
かと言って居候をずっと続けるわけにもいかない。あくまで独り暮らしのアパートが決まるまでの中継地点、ということで両親もS君のお父さんも了解してくれただけだ。
G.W明け、越谷市のアパートに引っ越した。叔父が不動産屋を営んでおり、物件を紹介してくれたのである。お茶の水まで1時間弱で通学できる、ということですんなり決定した。駅から徒歩3分のワンルームマンション。小さな冷蔵庫と勉強机でのスタートだった。これからが本当の浪人生活スタート、そんな勝手な解釈をして意気軒昂だったのであろう。

2010年6月4日金曜日

私の道程9

予備校時代を述べる前に、高校時代にちょっと戻りたい。
米沢興譲館高校の3年間が全く無味乾燥だった、ということではない、と(そう思いたい)いうこともあるからだ。
記憶に残っている「先生」は、となると、1人あげられようか。
すでに亡くなったらしいが、佐々木謙助という国語の教師である。入学早々に現代国語を習い、その年に定年退職だった。中学以来、国語、という科目は苦手であったがむしろ好きなほう、であった(いや、もしかすると、佐々木先生のお陰で、文章を読むことの楽しみを覚えたのかもしれない)。
佐々木先生は、文学、文芸、といったものの楽しさを表情豊かに話してくれた。大学時代は同人誌を作っていたとか、歩きながら本を読んだ、とかとか、他愛もない内容だったが、実に楽しかった。決して、文学とは、などという大上段に構えた話ではない。この人は本当に本が好きな人なんだなあ、と思ったものだ。
教科書で出てきた、大岡昇平の「靴の話」は、忘れられない。戦争がひとたび起これば、人というものがどのように変わるのか、戦争は決してしてはいけない、云々、そういう「道徳めいた」ことを直接的に授業で述べたのではなかった。淡々と、大岡文学なるものを、“青少年”に伝えただけだと思う。先生が口にした言葉を覚えているわけでもない。でも、それを学んだ私は、この短編から何かを感じたのである。大岡文学がずっと気になる存在であり続けたわけだ。
こういう出会いが、高校における授業のあるべき姿かもしれない。
そういえば、矢内原伊作という名が、脳裏にインプットされたのも佐々木先生の授業だった。

2010年6月3日木曜日

私の道程8

3月に卒業して迷わず予備校に進んだ。ただ、どこの予備校にするかは大いに悩んでいた(楽しみながら)。ネットなんてない時代。情報はあくまで受験雑誌『蛍雪時代』で情報収集。理系志望だから、ということもあり、両国予備校、みすず学苑、などといった中小の予備校に目を付けていた。ただ、最終的には駿台予備学校を選択した。仙台での試験(予備校の受験?!)を受けて、晴れてお茶の水の本校に、となったのである。当時は、まだ山形新幹線が開通していないから、まだまだ東京は遠かった。福島まではL特急に乗り、東北新幹線に乗り継いでの小旅行。東京の路線図を片手に一人での日帰りだった。50万ぐらいだったかの入学金を現金で持ちながら、入学手続きに行った日を昨日のように覚えている。
家を離れるには住居の問題が当然ある。予備校生ということもあり当然にして予備校の寮にした(これには後日談あり)。
とはいっても、4月の上京は不安でいっぱいだったと思う。あまり記憶はないが。ただ、合格するまでは帰ってこないよ、なんて威勢のいいことを言って旅立った。
ちょうど、中学時代からの親友S.H君も予備校進学のため上京する(こちらは、父親の仕事の関係で親子で上京)こともあったので、「独りぼっち」という思いはなかった。
余談だが、このとき(91年4月)、都庁が新宿に移転し、また鈴木俊一氏が磯村氏を破って4選を果たした。上京する朝はまさに鈴木が当選を果たしたその日だったことを覚えている。

結果として、この年が私と東京(都会)との付き合い、葛藤……の始まりとなった。北大に進むまでの1年間の付き合いのつもりだったのに。

2010年6月2日水曜日

私の道程7

とにかく、高校を出たかった。山形から出たかった。その一心だったような気がする。
いつからか、浪人を大前提にしていた。現在の入試制度はちょっと違うだろうが、当時(91年)は、国公立は「分離分割方式」とか呼ばれ、前期日程・後期日程などと言われていた。前期日程でどこかを受け、そこがダメなら後期日程で別の大学を……、というのが単純化した分かりやすい説明だろうか。
私は、前期は、初志貫徹、という意味で北海道大学の理Ⅰ(理学部系)を受けた。模擬試験では、良くてB判定、通常はC判定程度だった。受験ははるばる列車で行った。旅行気分だったのか、今は亡き祖父と二人で出掛けた。山形から札幌までだから半日以上かかったと思う。試験の記憶はあまりない。車窓から見る景色が、岩手、青森と違い、北海道は明るく感じられたことが、何とも不思議であった。寒々しい寂しさ、がないのである。
北大の結果は、「桜散る」。まあ、予想通り、とは言え、ちょっと悔しかった。
落ちたから、どうするか。浪人のつもりだったが、後期日程で、ということで弘前大学理学部を受けた。旧制弘前高校の流れをくむ校風、弘前というイメージから、私の中では以前から候補の大学ではあった。3月10日過ぎだったと思うが、北大と同じく、またまた福島経由の東北本線陸路で出掛けた。試験のことなどあまり記憶はないが、弘前グランドホテルに一人泊まって、歩いて受験上まで行ったことは覚えている。それと、弘前駅前で、受験生対象の案内があって、そこで「山形から来たんですが……」と道順とかを訪ねたとき、「訛っているね」なんて言われたのも懐かしい。
結果は、合格だった。でも、合否が決まる前に予備校行きを決めていた。父は、心のどこかでは弘前に進んでほしかったのかもしれない。東京で浪人生活など送らせたくなかったのかもしれない。
私としては、ただただ中途半端であると感じていた。無駄な時間を過ごしたとしか感じていなかった。とにかくもっと「きちんと」勉強したかった。それも自由な空間で。
そういう意味でも、多くの同級生が行くであろう、河合塾仙台校、代ゼミ仙台校は、念頭になかった。決して「都会」「東京」に思いがあったわけではない。
そういえば、こんなことがあった。浪人を正式に決めた後、高校の担任から電話があった。熊本大学(だったか?)が2次募集するから、受けてはどうか、ということ。私の将来を真剣に考えてくれて、ということではないと思う。とにかく、国公立に現役で何名受かるか、というのが高校としての数値目標にあったための対応、だったのではなかろうか……。

2010年6月1日火曜日

私の道程6

中学を終えると、米沢興譲館高校へ進んだ。一応、地元の進学校、となっていた。結論を言えば、楽しくない、暗黒の3年間であった。大学に入ることが至上命題とされた生活に何の潤いも感じられなかった。その後、大学進学などで多くの友人と高校時代の話をしたが、本当に羨ましく感じたのを覚えている。もちろん、そのような3年間を送った私自身にも責任はあろう。だが、である。10代後半の多感な時期、若者が目を輝かせて学ぶことを、大人はサポートすべきではないか。そういった環境を作るのが教師の役目ではないか、とつくづく思う。とにかく、現役で国公立大へ、と「洗脳」し続ける教育だったように感じていた。つまり、できる奴は東北大へ、さもなくば山形大へ。こういう考えが蔓延していたのである(東北大、山形大それ自体に問題はないが)。かと言って、運動もやれ、という暗黙の空気も漂っていた。そう、文武両道という目標である。授業が終わって、そのまま家に帰ることは憚れた。でも、結果としてそういう教育は、金太郎飴のような人間を片っぱしから生み出すだけではなかったか、と思うのである。

2年生からは文系と理系コースに分かれ、私は理系を選択。好きだから、興味があるから、というより、理系科目のほうが成績がいいから、というだけ。安易な選択であった。
誰もが東北大を目指すことへのかすかな抵抗として、北海道大を志望していた。火山のこと、地震のことを勉強したいな、と思っていた。無理矢理作った目標とも言えたのだが。
そういえば、気象大学校を受験したのもいい思い出だ。文部省管轄でないため、センター試験などとは無関係。仙台地方気象台の会議室が受験会場だった。となりには観測機器が置いてあったりした。試験問題もユニークだった。たしか、数学の問題も、x 軸、y軸、z軸を、緯度、経度などと関連させて、といったように、天体と関連させていた。もちろん、全国15名の合格者に入るわけはなかったが。

2010年5月31日月曜日

死刑制度と向き合う

ETV特集を見た。『「死刑裁判」の現場――ある検事と死刑囚の44年』
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html

「ある検事」とは、土本武司さんで、「元検事」としてワイドショーなどにはよく出ていたかた。同年代でメディア露出度の高い検事としては、他に河上和雄さん、故佐藤道夫さんなどが思い浮かぶ。
土本さんの印象としては、それこそ、「死刑存置派」「厳罰派」であった。
だが、これとは全く正反対の印象を本番組は抱かせた。
少なくとも、氏は死刑制度と真正面から向き合っていたことが分かる。
(そして、その一方で、敢えて向き合わないことも検事の選択肢として存在することも、分かった。)
つまり、死刑の現場(死刑囚が最後に命を落とす正にその現場)に立ち会うか、否か。
たとえ罪を犯したことが明白であっても、国家が人の命を奪うことが正当化されるのだろうか。もう一人の登場人物「長谷川死刑囚」が残した書簡は、われわれに問いかけている。もちろん、彼に命を奪われた人が一方に存在する……。
少なくとも、簡単に結論を出せる問題でない。私たちは、とにかくこの制度と「向き合う」ことが今こそ求められている。
そして、それ以前に、法というものを私たちはどこかの段階で学ぶ必要があるかもしれない。裁判員制度の導入は
国民の法意識向上、という意味ではプラスであると考える。
「殺そうと思って」殺した殺人罪と、傷害致死罪があって、、、という区別すらないまま、ワイドショーに振り回されてはどうしようもない。

この番組を観て改めて考えたこと。
人間にとって、「経験」がいかに大切か。かと言って、われわれが経験できることには限度がある。想像力と謙虚に人の話に耳を傾けること、これしかないのだろう。
人の想像力を豊かにさせる本、そういったものを世に送り出したい。

2010年5月27日木曜日

私の道程5

中学生になってようやく「成績」というものを気にし始めたのかもしれない。英語の勉強がスタートし、通知表が5段階評価になり(小学校は3段階だった)、学年内で15位以内の氏名が公にされたことで、自然に、そういう雰囲気が醸成されたのだろう。たしか、中学進学と同時に「進研ゼミ」を始めた。通信教育である。何か少しは勉強を、ということだったのだろう。
机に向かう、ということが一応習慣となったのは良かったと思う。少なくとも苦痛ではなかった。でも、どうも集中力に欠けている、長時間机に座ったまま、というのが苦手であった。残念ながら、これは、現在まで続いているような気がする。飽きっぽい、という性格だ。
テレビで芸能人を見るようになったのは、ちょうどこのころだった。小学時代は全く無関心だったからその反動かもしれない。家にビデオが入ったのもそのころ、そしてCDが登場した時期だった。
勉強以外で何か興味をもったものがあったかしら、と記憶をたどっても思いつかない。読書、と言ってもあまり記憶にない。
ただ、中谷宇吉郎の本を読んで感想文を書いたことはなぜか覚えている。「雪」への親近感がそうさせたのだろうか。

2010年5月26日水曜日

私の道程4

小学校から中学校へ、それこそ、何の緊張感もなく進んだ。
他の小学と合流するわけでもないから、顔ぶれも一緒。
でも、私にとって大きな出来事は、「部活」だった。
この「ブカツ」っていったいなんだったのか、と今でも思う。
小学時代、人並みにキャッチボールなどはできたけど、運動音痴を自覚していた。
でも、当然のように運動部に入るという選択肢しかなかった。

なぜなら、それこそ「空気」がそういうこと。片手で数えるほどしかない非運動系の部に入るのは変わった奴、というイメージがあったから。実際、そういった部に所属していた男子は数人いたろうか。

で、選んだのが「剣道」。同じクラスになったS君と一緒に選んだのだった。
授業が終わった後、当然のようにジャージに着替えて体育館へ。
そして、春と秋には地区の大会。
決して、「義務」ではない(はず)なのに、毎日。辛かった。
――半強制的に丸刈り。
――正座させられて「先輩、ファイト!」なんて声を出す。
――剣道で使う防具は、もちろん自前で購入(10万円近くした!)。
当時、何とも思っていなかった。それこそ、地域全体がそういうものと思っていた。
いやだな、早く帰りたいな、と思うことはあったが、結局、いい子であろうとしたのだろう。
「まじめに」続けた。こういうものだ、と思っていたから。

だから、3年生になって「引退」(そもそもこの言葉すら変だ)した後は楽しかった。
だって、授業が終われば、もう「自由」なんだから。

でも、
・学習指導要領で、「ブカツ」はどう位置付けられているのだろう。
・今でもそういうシステムなのだろうか。
・山形県だけのことだったのか(そんなことはないだろうな)。
 ……
疑問は尽きない。

昭和5年の本

神保町で働いているから、2日に1回は古書店をぶらぶらする。
お昼御飯のついでに廻ることがことが多い。
今日も靖国通り沿いの書店を眺めた。店内には入らず、通り沿いのワゴンを物色していた。
すると、箱本が2冊並んでいた。函は赤茶けていた。
美濃部達吉著『行政法撮要』だった。
奥付には、昭和5年、とある。今から80年前。
中には、赤と青の線がビッシリ。帝大の学生が勉強したのだろうか。
それが、1冊400円(この値段をどう解釈するかは人それぞれだろう)。
こうして、本は生き続けるのだなあ、と感慨に耽った。

本がどんどん奇麗になっている。印刷のレベルも紙の質も、時代とともに進化している。
しかし、作り手と書き手の気持ちの入れようは?
少なくとも、前者について言えば、そう自問自答せざるを得ない。
流れ作業で片っぱしから出しいないか。
自分で読みたいものを主体的に作っているか。

80年後にもどこかで読める、と確信持てる本を作りたい。
2090年、か。

2010年5月25日火曜日

私の道程3(相撲に熱中した小学時代)

小学校時代に熱中したこと、と言えば「大相撲」だった。同じクラスのI君が相撲好きだったこともあったろう。年6回の本場所をテレビで観ることがなによりの楽しみ。贔屓の力士は、北天祐。北海の白クマ、と呼ばれたあの姿に子どもながらほれぼれしていた(数年前、若くして彼は亡くなったが、彼以上の端正な力士は彼以後出ていない、とひそかに考えている)。初めて本場所を観戦したのは、確か小学5年。蔵前国技館まで父と弟と来た。確か、両国に移転する前の最後の場所だったかと記憶している。I君とは、休み時間に教室の後ろで相撲を取ったり、砂場を土俵代わりにしたり。
当時、相撲関係の雑誌が確か3誌出ていた。ベースボールマガジン社の『相撲』、読売新聞社の『大相撲』、と、NHKが場所ごとに出していたもの。片っぱしから貪るように読んでいた。そして、双葉山、羽黒山、栃若、柏鵬、……なんていうことまで手を出していたから、尋常ではなかった。
しかし、興味、というのは移ろいやすいのか、私が飽きっぽいのか、中学に進むと徐々に相撲への関心は薄れた。I君と別のクラスになったこともあろう。また、相撲が「おしゃれ」でないことを直感で感じたからかもしれない。思春期に入り、何となく皆と同じこと、に志向していったのだろう。今、5歳の甥っ子が大の相撲好き。この後どうなることやら。

2010年5月24日月曜日

私の道程2(保育園、小学時代)

歩いて数分のところにあった市立保育園に通った(決して共働きの家庭ではなかったが、なぜか許されたのだという。都市部と違い、待機児童などという言葉とは無縁の地域、時代、だったと言える)。この、5,6歳の記憶はほとんどない。父方の祖父・新吾の見舞いにベッドを訪れたことだけがかすかに思いだされるくらいだ。ただただ、2歳下の弟と二人で泥んこになって遊んでいたのだろう。今の、インドア派の私からは全く想像できない。
小学校も歩いて10分程度のところにあった。地域におけるマンモス校。一学年200人近くいた。決してやんちゃな坊主ではなかったが、少しばかり「お勉強」も出来たため、学級委員長などをしていたことを思い出す。
小学校4年生の時の将来の夢に、「国会議員」と書いていたこと、小学校6年生の卒業文集に、尊敬する人として「宮澤喜一」と書いていたことから、だいぶ変わっていた、マセテいた子であったことは確か。その一方、みんなと一緒、であることが暗黙に求められていたのか、好きでないスポーツをやっていた。徒競走など常に「ビリ」なのに、そんなに体育が嫌いで
なかったのは今でも不思議である。中学受験があるわけでもない。小学校の隣の中学校に全員がそのまま「進級」。のどかな小学生活だったと思う。

2010年5月23日日曜日

紆余曲折、これまでも、そしてこれからも?(わたしの道程1)

今年で38歳になる。
千葉県八千代市に、妻(みちよ)と娘(真喜)と三人で暮らし、神保町の出版社で働いている。
なぜ、この家で、この人と暮らし、この社で、あの人と働いているのか?
振り返ると、「夢」、「憧れ」に向かって一途に進んできた結果、ではない。
気がついたら、そうなっていた、という情けない有様。まさに紆余曲折だった……。

日本経済評論社、という名の会社に入って、この7月で丸2年。
他の出版社からの転職だった。出版社としては3社目だ。
では、業界にも熟知し、本作りももうプロ級? と言われれば、つらい。
28歳から34歳までの6年間は山形県庁で公務員生活。

こういったことを話すと、多くの方から、「公務員を辞めるなんて思い切ったね」
「好きなことにチャレンジするなんていいね」「役所とはまったく違う世界だから頭を切り替えなきゃね」「この業界は斜陽産業なのにね」
などと、励ましとも脅かしとも取れる言葉をいただく。

これまで、ただただ世の流れに身を任せてきたわけでもない(「紆余曲折」だけど)。
一応、当時としては、悩みぬいた決断をしたつもり。
平均寿命を考えればまだ人生の半分にも満たない。これからどう生きていくのか。
とにかく、楽しく、笑顔を絶やさず生きていきたいものだ。
少し、頭を整理するため、これまでの経過(「人生」などと仰々しくは言えない)を
振り返ってみたい。

私は、1972(昭和47)年11月9日、山形県南陽市に生まれた。父・堅治、母・範子の一番目の子として。堅治は高校の数学教師、母は専業主婦。2年後の74年には弟の大治が生まれる。
この4人で「吉田家」。
南陽市とは、山形県の南部に位置し、赤湯温泉で少しは有名かもしれない。山形新幹線の「赤湯駅」である。私の育った家は、その赤湯駅から、徒歩15分ほどの住宅地。今では郊外型のショッピングセンターが近くにあるが、少年時代は、田んぼに囲まれた土地だった。稲刈り後に、田んぼで野球をしたぐらいだ。
今でも両親はその家に住み続けている。築35年。どうみても快適そうではないが、もともと物欲のないタチ。父などは、「あと何年生きれるかわからないのに建て替えなんて」と。
年に一度か二度、帰省するが、やはり生まれ育った家があると言うのは、有難い。