2010年5月31日月曜日

死刑制度と向き合う

ETV特集を見た。『「死刑裁判」の現場――ある検事と死刑囚の44年』
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html

「ある検事」とは、土本武司さんで、「元検事」としてワイドショーなどにはよく出ていたかた。同年代でメディア露出度の高い検事としては、他に河上和雄さん、故佐藤道夫さんなどが思い浮かぶ。
土本さんの印象としては、それこそ、「死刑存置派」「厳罰派」であった。
だが、これとは全く正反対の印象を本番組は抱かせた。
少なくとも、氏は死刑制度と真正面から向き合っていたことが分かる。
(そして、その一方で、敢えて向き合わないことも検事の選択肢として存在することも、分かった。)
つまり、死刑の現場(死刑囚が最後に命を落とす正にその現場)に立ち会うか、否か。
たとえ罪を犯したことが明白であっても、国家が人の命を奪うことが正当化されるのだろうか。もう一人の登場人物「長谷川死刑囚」が残した書簡は、われわれに問いかけている。もちろん、彼に命を奪われた人が一方に存在する……。
少なくとも、簡単に結論を出せる問題でない。私たちは、とにかくこの制度と「向き合う」ことが今こそ求められている。
そして、それ以前に、法というものを私たちはどこかの段階で学ぶ必要があるかもしれない。裁判員制度の導入は
国民の法意識向上、という意味ではプラスであると考える。
「殺そうと思って」殺した殺人罪と、傷害致死罪があって、、、という区別すらないまま、ワイドショーに振り回されてはどうしようもない。

この番組を観て改めて考えたこと。
人間にとって、「経験」がいかに大切か。かと言って、われわれが経験できることには限度がある。想像力と謙虚に人の話に耳を傾けること、これしかないのだろう。
人の想像力を豊かにさせる本、そういったものを世に送り出したい。

2010年5月27日木曜日

私の道程5

中学生になってようやく「成績」というものを気にし始めたのかもしれない。英語の勉強がスタートし、通知表が5段階評価になり(小学校は3段階だった)、学年内で15位以内の氏名が公にされたことで、自然に、そういう雰囲気が醸成されたのだろう。たしか、中学進学と同時に「進研ゼミ」を始めた。通信教育である。何か少しは勉強を、ということだったのだろう。
机に向かう、ということが一応習慣となったのは良かったと思う。少なくとも苦痛ではなかった。でも、どうも集中力に欠けている、長時間机に座ったまま、というのが苦手であった。残念ながら、これは、現在まで続いているような気がする。飽きっぽい、という性格だ。
テレビで芸能人を見るようになったのは、ちょうどこのころだった。小学時代は全く無関心だったからその反動かもしれない。家にビデオが入ったのもそのころ、そしてCDが登場した時期だった。
勉強以外で何か興味をもったものがあったかしら、と記憶をたどっても思いつかない。読書、と言ってもあまり記憶にない。
ただ、中谷宇吉郎の本を読んで感想文を書いたことはなぜか覚えている。「雪」への親近感がそうさせたのだろうか。

2010年5月26日水曜日

私の道程4

小学校から中学校へ、それこそ、何の緊張感もなく進んだ。
他の小学と合流するわけでもないから、顔ぶれも一緒。
でも、私にとって大きな出来事は、「部活」だった。
この「ブカツ」っていったいなんだったのか、と今でも思う。
小学時代、人並みにキャッチボールなどはできたけど、運動音痴を自覚していた。
でも、当然のように運動部に入るという選択肢しかなかった。

なぜなら、それこそ「空気」がそういうこと。片手で数えるほどしかない非運動系の部に入るのは変わった奴、というイメージがあったから。実際、そういった部に所属していた男子は数人いたろうか。

で、選んだのが「剣道」。同じクラスになったS君と一緒に選んだのだった。
授業が終わった後、当然のようにジャージに着替えて体育館へ。
そして、春と秋には地区の大会。
決して、「義務」ではない(はず)なのに、毎日。辛かった。
――半強制的に丸刈り。
――正座させられて「先輩、ファイト!」なんて声を出す。
――剣道で使う防具は、もちろん自前で購入(10万円近くした!)。
当時、何とも思っていなかった。それこそ、地域全体がそういうものと思っていた。
いやだな、早く帰りたいな、と思うことはあったが、結局、いい子であろうとしたのだろう。
「まじめに」続けた。こういうものだ、と思っていたから。

だから、3年生になって「引退」(そもそもこの言葉すら変だ)した後は楽しかった。
だって、授業が終われば、もう「自由」なんだから。

でも、
・学習指導要領で、「ブカツ」はどう位置付けられているのだろう。
・今でもそういうシステムなのだろうか。
・山形県だけのことだったのか(そんなことはないだろうな)。
 ……
疑問は尽きない。

昭和5年の本

神保町で働いているから、2日に1回は古書店をぶらぶらする。
お昼御飯のついでに廻ることがことが多い。
今日も靖国通り沿いの書店を眺めた。店内には入らず、通り沿いのワゴンを物色していた。
すると、箱本が2冊並んでいた。函は赤茶けていた。
美濃部達吉著『行政法撮要』だった。
奥付には、昭和5年、とある。今から80年前。
中には、赤と青の線がビッシリ。帝大の学生が勉強したのだろうか。
それが、1冊400円(この値段をどう解釈するかは人それぞれだろう)。
こうして、本は生き続けるのだなあ、と感慨に耽った。

本がどんどん奇麗になっている。印刷のレベルも紙の質も、時代とともに進化している。
しかし、作り手と書き手の気持ちの入れようは?
少なくとも、前者について言えば、そう自問自答せざるを得ない。
流れ作業で片っぱしから出しいないか。
自分で読みたいものを主体的に作っているか。

80年後にもどこかで読める、と確信持てる本を作りたい。
2090年、か。

2010年5月25日火曜日

私の道程3(相撲に熱中した小学時代)

小学校時代に熱中したこと、と言えば「大相撲」だった。同じクラスのI君が相撲好きだったこともあったろう。年6回の本場所をテレビで観ることがなによりの楽しみ。贔屓の力士は、北天祐。北海の白クマ、と呼ばれたあの姿に子どもながらほれぼれしていた(数年前、若くして彼は亡くなったが、彼以上の端正な力士は彼以後出ていない、とひそかに考えている)。初めて本場所を観戦したのは、確か小学5年。蔵前国技館まで父と弟と来た。確か、両国に移転する前の最後の場所だったかと記憶している。I君とは、休み時間に教室の後ろで相撲を取ったり、砂場を土俵代わりにしたり。
当時、相撲関係の雑誌が確か3誌出ていた。ベースボールマガジン社の『相撲』、読売新聞社の『大相撲』、と、NHKが場所ごとに出していたもの。片っぱしから貪るように読んでいた。そして、双葉山、羽黒山、栃若、柏鵬、……なんていうことまで手を出していたから、尋常ではなかった。
しかし、興味、というのは移ろいやすいのか、私が飽きっぽいのか、中学に進むと徐々に相撲への関心は薄れた。I君と別のクラスになったこともあろう。また、相撲が「おしゃれ」でないことを直感で感じたからかもしれない。思春期に入り、何となく皆と同じこと、に志向していったのだろう。今、5歳の甥っ子が大の相撲好き。この後どうなることやら。

2010年5月24日月曜日

私の道程2(保育園、小学時代)

歩いて数分のところにあった市立保育園に通った(決して共働きの家庭ではなかったが、なぜか許されたのだという。都市部と違い、待機児童などという言葉とは無縁の地域、時代、だったと言える)。この、5,6歳の記憶はほとんどない。父方の祖父・新吾の見舞いにベッドを訪れたことだけがかすかに思いだされるくらいだ。ただただ、2歳下の弟と二人で泥んこになって遊んでいたのだろう。今の、インドア派の私からは全く想像できない。
小学校も歩いて10分程度のところにあった。地域におけるマンモス校。一学年200人近くいた。決してやんちゃな坊主ではなかったが、少しばかり「お勉強」も出来たため、学級委員長などをしていたことを思い出す。
小学校4年生の時の将来の夢に、「国会議員」と書いていたこと、小学校6年生の卒業文集に、尊敬する人として「宮澤喜一」と書いていたことから、だいぶ変わっていた、マセテいた子であったことは確か。その一方、みんなと一緒、であることが暗黙に求められていたのか、好きでないスポーツをやっていた。徒競走など常に「ビリ」なのに、そんなに体育が嫌いで
なかったのは今でも不思議である。中学受験があるわけでもない。小学校の隣の中学校に全員がそのまま「進級」。のどかな小学生活だったと思う。

2010年5月23日日曜日

紆余曲折、これまでも、そしてこれからも?(わたしの道程1)

今年で38歳になる。
千葉県八千代市に、妻(みちよ)と娘(真喜)と三人で暮らし、神保町の出版社で働いている。
なぜ、この家で、この人と暮らし、この社で、あの人と働いているのか?
振り返ると、「夢」、「憧れ」に向かって一途に進んできた結果、ではない。
気がついたら、そうなっていた、という情けない有様。まさに紆余曲折だった……。

日本経済評論社、という名の会社に入って、この7月で丸2年。
他の出版社からの転職だった。出版社としては3社目だ。
では、業界にも熟知し、本作りももうプロ級? と言われれば、つらい。
28歳から34歳までの6年間は山形県庁で公務員生活。

こういったことを話すと、多くの方から、「公務員を辞めるなんて思い切ったね」
「好きなことにチャレンジするなんていいね」「役所とはまったく違う世界だから頭を切り替えなきゃね」「この業界は斜陽産業なのにね」
などと、励ましとも脅かしとも取れる言葉をいただく。

これまで、ただただ世の流れに身を任せてきたわけでもない(「紆余曲折」だけど)。
一応、当時としては、悩みぬいた決断をしたつもり。
平均寿命を考えればまだ人生の半分にも満たない。これからどう生きていくのか。
とにかく、楽しく、笑顔を絶やさず生きていきたいものだ。
少し、頭を整理するため、これまでの経過(「人生」などと仰々しくは言えない)を
振り返ってみたい。

私は、1972(昭和47)年11月9日、山形県南陽市に生まれた。父・堅治、母・範子の一番目の子として。堅治は高校の数学教師、母は専業主婦。2年後の74年には弟の大治が生まれる。
この4人で「吉田家」。
南陽市とは、山形県の南部に位置し、赤湯温泉で少しは有名かもしれない。山形新幹線の「赤湯駅」である。私の育った家は、その赤湯駅から、徒歩15分ほどの住宅地。今では郊外型のショッピングセンターが近くにあるが、少年時代は、田んぼに囲まれた土地だった。稲刈り後に、田んぼで野球をしたぐらいだ。
今でも両親はその家に住み続けている。築35年。どうみても快適そうではないが、もともと物欲のないタチ。父などは、「あと何年生きれるかわからないのに建て替えなんて」と。
年に一度か二度、帰省するが、やはり生まれ育った家があると言うのは、有難い。