2010年6月21日月曜日

私の道程15(数学科から政治学科へ)

3年になってすぐだと思う。数学科でほんとうにいいの? という不安、不満が頭に浮かんだ。授業が数学一色になったものの、数学の楽しさ、といったものは感じられないままだった。漠然と頭に描いていた数学教師の道についても、その熱は冷めつつあった。むしろ、社会問題への関心が強くなり、将来はジャーナリズムの世界に進みたいと考えるようになっていたのである。当時、朝日新聞で編集委員として活躍していた石川真澄さんが、理系の出身(九州工業大学)だったということもあり、数学科を卒業してそれを武器にジャーナリストに、なんていう夢を描いていたのだ。興味関心の向くまま雑多な本を読んでいたものの、それが深い思考を伴うものでなかった面も自覚していた。好きな勉強をしてその道に進めたらいいな、そういう単純な思いが日々強くなったのだった。
3年に進んだ途端、時間割から文系科目が消えた寂しさもあり、思い切って政治学への転科を決心したのであった。一度舵を切ったらその方向に進む、という性格がここでも現れたのだと思う。
「決心したら行動あるのみ」。理系から文系への転部は比較的緩やかなこと、書類審査が中心とのこと、でもすでに数学科の3年になっているため、もう一度法学部の3年にならざるを得ないこと、数学科に属するうちから法学部の授業は取れることなどなど、情報を収集したのだ。
このとき、いきなり相談させていただいたのが、それまで何の面識もなかった御厨貴先生であった。ジャーナリズムの世界に進みたい、政治学を学問として学んでみたい、だから法学部に移りたい、そんな単純な論法で自分の思いをぶつけた20歳の若者に、先生は、丁寧に対応してくださった。たしか、「ニューヨークタイムズレビュー」などを読むといいよ、なんてアドバイスもいただいた。そして、まだ数学科に在籍しながら、次年度の法学部への転部を前提にして、先生の「日本政治史」の講義を受講したのであった。先生の授業は、VTRを用いた授業で、視聴覚室が教室であった。当時からすでにご多忙であったため、時折休講もあったが、正月早々(確か1月5日)の、まだ大学がひっそりした中での補講があったことも記憶している。我々学部生にも熱心に教育をしてくださったことの証だと思う(残念ながら、正式に法学部に移ってから、御厨先生に、ゼミや講義で御指導を受けるチャンスはなかった)。
3年進級早々に転部を決意した私は、この1年を勝手に「法学部生への準備期間」などと位置付けた。つまり、転部を大前提にして、数学の授業は全く無視したのだ。授業は、上記のように「日本政治史」や「日本国憲法」などを受講した。かと言って、受講するにも限度がある(あった?)から、空白の自由な時間がたくさんあったわけだ。振り返れば、贅沢な学生だった。

2010年6月13日日曜日

私の道程14(二人の祖父のこと)

40近くになり、自分の性格や立ち居振る舞いはどこに由来しているのだろう、と時折考える。自分で思ったように行動してきた、誰からも左右されていない、などと強がったところで誰も信じない。節目節目での人との出会い、接触が、その人となりを創るのだろう。親、兄弟、恩師、友人、上司、等々。
ここでは、二人の祖父を、振り返ってみたいと思う。
明治生まれの父方の祖父(吉田新吾)と、大正生まれの母方の祖父(船山辰吉)には共通点が多い。新吾は、私が小学入学前に亡くなったから、一緒に話をした記憶はほとんどない。父や周辺から聞いた伝聞での祖父像でしかない。一方、辰吉は、大正14年生まれであり、私が大学を出るころまで存命だったから、未だに多くの思い出が蘇る。
その二人の祖父には、共通点が多い。まず、二人とも、農家の末男として生まれ、山形県立置賜農学校から師範学校を経て、地元の小中学校長を務めた。そして、お婿さん、であることも共通だ。それ以外にも、
・日本酒好きだが、決して泥酔することはない。チビチビ、盃で静かに飲んでいた。
・長身の細身で紳士的だった(二人とも168センチぐらい。同世代では大きいほうだ)。
・大声を出して人をしかったことは皆無だった。
といった人間としての振る舞い、外形も似ていた。
これは全くの偶然だろう。田舎の小学校の元校長など、権威ぶって、ちょっと小太りで、郷土の歴史などを滔々と語って、、、というのが一般的だ。そんな中、身贔屓でもなく、この二人は違って見えた。これだけは私のひそかな自慢である。
新吾も辰吉も、農学校出身なのに、教師になった。それぞれ、思うところがあったと聞く。農学校を出てすぐ、まだ20歳前に代用教員などとして教壇に立ち、そこで教師と言う職業に目覚め、師範学校で本格的に学ぶ、というルートである。
父方の祖父、新吾の蔵書は、農業関係のものが多かったらしい(私は直接知らない。父からの伝聞)。帝大の農学者が書いた、果樹栽培の本だとか。一方、母方の祖父、辰吉の蔵書は、哲学、文学中心。びっしり書き込みのされた、高坂正顕、河合栄治郎、阿部次郎、安倍能成等の本や、新約聖書、万葉集などなどが蔵に眠っていた。私が、大学に入り、辰吉宛に、「一般教養の「哲学」の授業が面白い」などと書いて送ったら、さっそく、出隆『哲学以前』が送られてきた。もちろん、昭和前期刊行のボロボロの箱入りの本。彼等がそれらをどれだけ理解し、また読み込んでいたのかはわからない。しかし、何がしかの「思い」があったに違いない。もしかしたら、彼らにとって、「学問」とは憧れに近いものであったのだろう。山形県の南部、飯豊町という農村から出た青年にとっては、県都、山形市で学ぶこと、それ自体が夢のようであった。後年、入院先の窓から、山形市街を見ながら、私に、戦前の山形のハイカラさを、懐かしそうに話したのは、そういう一時期を過ごせた幸福感を噛み締めていたのだろう。
こういった人は、当時の日本全国に同じように存在したのだろう。そうした人々が、この国の根っこを作っていたと考えるのは、短絡的すぎるだろうか。
もし、新吾と辰吉がまだ生きていたとして、胸を張って彼らと相対することができるだろうか、そう自問自答せざるを得ない。

私の道程13(大学生活のスタート)

1992年4月、東京都立大学理学部数学科に入学した。都立大が南大沢に移転して2年目の春だった。京王線南大沢駅から数百メートルにある広大な真新しいキャンパス。入学式のことなどはあまり覚えていない。数学科は、たった27人。高校の1クラスより小さいわけだ。すぐに顔と名前は覚えられる。少なすぎて、語学のクラスなどは物理、化学、生物、地理学の他の理学部との混合だった。理系ということもあり、当然に受講すべき数学と物理の科目があり、それに英語と第二外国語のフランス語を合わせれば、ほとんどは時間割が埋まった。数学、物理は予習、復習は欠かせなかった。ちょっとでもサボると全くチンプンカンプン。
“大学らしい”数学への憧れがあり、たとえば、デーデキントの『数について』(岩波文庫)などを父から譲り受けたり、『数学セミナー』の購読をスタートさせたり、と数学徒の道に一歩踏み出した気分に浸っていた。しかし、そんな悠長な雰囲気ではなかった。ひたすら高等数学を片っ端から頭に叩き込む必要に迫られたのである。積分記号(インテグラル)がいくつも連なる、高校の「微分積分」の延長であったり、はたまた群、環、位相空間、、、といったような高校数学とは比較しようもない世界がそこには無数に存在していた。そこに、「面白さ」を感じるなど、私には程遠かったのだろう。難しいなあ、そんなため息の連続。
サークル活動はしなかった。運動系などは全く念頭になく、かと言って音楽、絵などへの志向もなかった。友人のM君といろいろと物色したが、これ、といったものがなく、どこにも入らなかった。友人を作る手段、として考えた一面があったが、そこまでして、という思いがあったためだ。実際に、M君という友人ができたから。
漠然とした思いとして、数学教師に“でも”なろうか、と考えていた。父と同じ道をという「安易な気持ち」と、研究者になれるわけないからな、かといって(バブル期の金融工学の影響で数学科出身の進路として一般的になりつつあった)金融機関への就職というのも考えにくかったたためだ。
教職課程も並行して受講したのはそのためである。日本国憲法、教育学、教育原理、道徳教育論などなど。都立大の教育学はある種の伝統があった。山住正己先生が最も有名だろうか。日本の教育学博士第一号であり、文部省廃止論などで論陣を張っていた。そして、国民の教育権論で有名な行政法学者の兼子仁先生もいらした。議論のないように立ち入るほどの資格は私にない。が、教育基本法が改定され、また、戦後65年を過ぎた今、もう一度、冷静に戦後の教育学を振り返る作業は必要だと痛感する(このことは別に稿を改めたい)。
大学1年、2年は、このように漠然と「数学教師の卵」と自らを位置づけていた。

2010年6月10日木曜日

私の道程12(充実した予備校生活)

予備校での一年間は、毎日が淡々とした生活であったが、充実していた。何ら不満もなかった。それは、「希望」を胸に抱き続けることができたからだったのではないか、と今になって思う。とにかく未来が明るく見えた。一日一日が、確かな一歩を踏んでいると実感できた。もちろん、それはあくまで幻想だったのかもしれない。が、人間にとって、前向きな思考が重要であることを、改めて認識する。
朝は、6時に起床。テレビがないからラジオを聴きながら登校の準備。もちろん、朝ご飯はなし。いや、コンビニのパンぐらい食べていたかな。東武伊勢崎線の越谷駅から、7時前の電車で出発。途中、北千住で千代田線に乗り換えて8時ちょっとすぎに駿台お茶の水校に到着。あとはひたすら授業を受け、夕方には帰宅。夕食は惣菜などを買って食べたり、外食だった。肉嫌いの私は、外食となると、だいたいメニューが決まる。まさか、寿司やてんぷら、ウナギなんて食べれるわけがないから、アジフライ定食、「肉抜きの」タンメン、などといった具合。ひとりで食堂に入ったことなど、山形では皆無。この一年間は、そういう意味でもすべてが初体験だった。
夜は、ひたすら机に向かった(はず)だが、死に物狂いで、という記憶はない。とにかく、予備校に行くのが楽しかった。勉強の合間の楽しみ、と言えば、「映画」だった。予備校で知り合ったO君に誘われたのである。それまで、「映画」なんて縁遠い生活だった。小学校の頃、母に連れられはるばる県都の山形に『南極物語』を観に行ったのが最初で、それ以降は本当に数える程度。それが、いきなり有楽町マリオン。いや、驚いた、ふかふかのソファに。彼は都立高の出身で、高校時代から伸び伸びと過ごしてきたことが明らか。視野が広かった。チェコの初代大統領にして劇作家のハヴェルの存在を教えてくれたのも彼だった。O君とはこの1年間とても楽しく過ごした。彼の家にもお邪魔したり、長電話したりと。
あっという間に受験シーズンが近づいた。当初は、地学系の希望だったが、この1年で数学科志望に変わった。父が数学教師であるということから考えれば「順当な」路線かもしれないが、やはり、予備校での授業がそうさせたのかもしれない。で、どこを受けるか。
「初志貫徹」で北大を受けるつもりだったが、東京での生活も捨てがたいという思いや、2浪は全体に避けたい、という切実な願いがあった。北大と都立大を受けることにしたわけである。そして、「理学部数学科」という名称が存在する都内の私大。つまりは立教と学習院に併願した((私のなかでは、「理」学部であることへのこだわりがあった。だから「理工」学部の数学科は選択肢になかった。今から思えば、まったく変なこだわり)。立教は、名著『零の発見』の吉田洋一氏、学習院は小平邦彦、彌永昌吉氏の伝統に惹かれたのである。
結局、都立、学習院、立教の3校に受かり、都立を選択。
充実した、という思いは、やはり、この満足した結果によるものなんだろう。そういう意味では、「受験生」というのは、結果でしか振り返られない、ある種悲しい、寂しい(いや、考えようによっては贅沢な)身分なのかもしれない。
いずれにしても、その後の生き方に大きな影響を与えたことは間違いない。
そういえば、受験時代、「宅浪」だけはやめよう、なんて言っていた。だって、「ヨシダ タクロウ」になるから。

2010年6月8日火曜日

菅総理の誕生で何を思う

菅総理が誕生した。総理が交代した、といったほうが分かりやすいかもしれない。
72(昭和47)年生まれの私が、「総理大臣」として「日本で一番偉い人」なんて言う形で認識したのは大平正芳氏が最初だったと記憶している(小学2年生頃か)。そう考えると、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、と18人も、「偉い人」を末端から眺めてきたことになる。菅さんが19人目である。ということは、恐らく(いや当然)、大臣はもっと代わっている……と思って、大蔵大臣だけ調べてみたら、大平内閣の金子一平氏から鳩山内閣の菅氏まで25人(ちなみに、私が記憶に残っているのは鈴木内閣のミッチー蔵相から)。権力者がこれだけ頻繁に代わることをどう考えたらいいのか、私には分からない。ただ、ひとつ気になるとすれば、私たち末端の人間までもが「評論家」に近づきつつあること。メディアのお陰だろうが、誰もが一家言持っている(と錯覚している)。
昔から、井戸端政治談議、床屋政談、などという言葉があるくらいだから、庶民が政治を語る姿は今に始まったことではない。
しかし、これが、シラケ、になるとすれば、やはり健全な姿ではない。「大きな時代の節目にいる」、と思いたいが、この言葉自体、湾岸戦争のころ、つまり私が選挙権を有したころから言われ続けているような気がする。
来年小学校に入る娘が、「ソウリダイジンって?」とか「テンノウヘイカって?」と聞き始めた。人生の先輩として親切に教えなくてはいけないと思いながら、分かりやすく伝えられずにいる。

2010年6月6日日曜日

私の道程11

予備校に入ったものの肝心の住まいを落ち着けなかった1ヶ月だったが、授業そのものは満足のスタートだった。いや、期待以上だった。
駿台の場合、座席が成績順に指定されていた(今の予備校はどうか知らないが、当時、座席が指定となっている予備校は珍しかったのではないだろうか)。私が入ったのは、国立理系αコース。端的にいえば、東工大クラスを目指す人たちの集まりだった。自然に周辺の人たちと会話するようになった。山形の片田舎の人間にとって彼らは初めて出会うタイプ。誰もが「大人」に見えた。建築家を目指して2浪目の人。都立高校時代から駿台に通っているという人、英語以外の外国語を高校の授業ですでに習っていたという人、ニューズウィーク誌を手にしていた人(当時、そんな雑誌があること、私は果たして知っていたかな?)・・・・・・。
そして何より、授業がすべて新鮮だった。これまでの常識が覆された。物理の山本義隆先生、数学の西岡康夫先生、英語の奥井潔先生、などは授業が何より楽しみだった。受験に直結、というわけではない。山本先生の微分積分を使った力学の解法は「美しかった」。西岡先生の「戦略的」「判断枠組み」などという言葉によっていただけかもしれないが、数学の本質を教えてくれた(事実、数学科への入学を決めた要素にもなったかもしれない)。英語の奥井潔先生、長身から語るサムセット・モームの短編の講義は、英語というより国語の授業だったような気がする。
ちなみに、山本先生が学生運動の闘士だったと知ったのはしばらく後だった。もちろん、彼の口から、物理以外のことが発せられたことはない。ひたすら問題を、黒板に解いていく。それを私たちはノートに取る。関西弁の混じった言葉で、式の展開を説明する、それに魅せられる、その繰り返しだった。
しかし、一度だけ、彼が教壇に上がらず、「数分だけ時間をくれ」といったことがあった。教室は何事かと静まり返った。91年のPKO国会のときだ。社会党の牛歩戦術のなか自民、公明、民社の賛成多数で可決したあの国会の翌日の授業だった。彼がどんな言葉で非難したのかはまったく覚えていない。ただ、「君たち受験生にもこういった問題について少しだけ考えて欲しい」、そんな趣旨だったと思う。
話が終わると、いつもの笑顔になって教壇に立ち「物理屋」の姿に戻った。青系のシャツとジーンズ、この格好は1年中を通してまったく変わらなかった。髪型も髭もまったく同じ。そんな風貌に理系志望の予備校生たちは、聞き入った。高校で習った物理はなんだったのか、そう思い知らされた。
その他、数学の秋山仁先生は、当時すでにTVなどで有名になっていたが、授業も分かりやすかった。そして、英語の室井光広先生は、数年後芥川賞を受賞することになる。

2010年6月5日土曜日

私の道程10

3月まで山形でのんびり過ごしていた18歳の私にとって、4月からの東京での生活は急激な変化であった。
駿台予備学校の寮は総武線下総中山駅近くにあった。テニスコートも併設した立派な寮であった。一人部屋で間口は1メートルもあったろうか。学習机と小さなロッカー、そしてベッドがあるだけ。孤独な感じがした。誰も知り合いがいないわけだから当然と言えば当然。
1カ月ももたなかった(耐えられなかった)。そう、寮生活に馴染めずにやめてしまったのである。もう少し「頑張れば」、と今になって思うが、当時はとにかく「ここを出なければおれの一年はおかしくなる」なんて思い詰めていた。携帯なんてない時代だから、連日、駅の公衆電話から実家へ連絡して親を説得。そして、4月の下旬には「脱出」。今思えば、父も母もそんな息子をどう見ていたのか、よく叱らなかったものだ。
「脱出先」は、中学時代の親友S.H君の家。当時、父上の仕事の関係で親子で久我山に住んでいた。そこに居候を決め込んだわけだ。家財道具などはない。とにかく鞄に荷物を詰め込んで、笑顔いっぱいで出た。もちろん別れの挨拶をするほどの付き合いはない。淡々と退寮したのである。
かと言って居候をずっと続けるわけにもいかない。あくまで独り暮らしのアパートが決まるまでの中継地点、ということで両親もS君のお父さんも了解してくれただけだ。
G.W明け、越谷市のアパートに引っ越した。叔父が不動産屋を営んでおり、物件を紹介してくれたのである。お茶の水まで1時間弱で通学できる、ということですんなり決定した。駅から徒歩3分のワンルームマンション。小さな冷蔵庫と勉強机でのスタートだった。これからが本当の浪人生活スタート、そんな勝手な解釈をして意気軒昂だったのであろう。

2010年6月4日金曜日

私の道程9

予備校時代を述べる前に、高校時代にちょっと戻りたい。
米沢興譲館高校の3年間が全く無味乾燥だった、ということではない、と(そう思いたい)いうこともあるからだ。
記憶に残っている「先生」は、となると、1人あげられようか。
すでに亡くなったらしいが、佐々木謙助という国語の教師である。入学早々に現代国語を習い、その年に定年退職だった。中学以来、国語、という科目は苦手であったがむしろ好きなほう、であった(いや、もしかすると、佐々木先生のお陰で、文章を読むことの楽しみを覚えたのかもしれない)。
佐々木先生は、文学、文芸、といったものの楽しさを表情豊かに話してくれた。大学時代は同人誌を作っていたとか、歩きながら本を読んだ、とかとか、他愛もない内容だったが、実に楽しかった。決して、文学とは、などという大上段に構えた話ではない。この人は本当に本が好きな人なんだなあ、と思ったものだ。
教科書で出てきた、大岡昇平の「靴の話」は、忘れられない。戦争がひとたび起これば、人というものがどのように変わるのか、戦争は決してしてはいけない、云々、そういう「道徳めいた」ことを直接的に授業で述べたのではなかった。淡々と、大岡文学なるものを、“青少年”に伝えただけだと思う。先生が口にした言葉を覚えているわけでもない。でも、それを学んだ私は、この短編から何かを感じたのである。大岡文学がずっと気になる存在であり続けたわけだ。
こういう出会いが、高校における授業のあるべき姿かもしれない。
そういえば、矢内原伊作という名が、脳裏にインプットされたのも佐々木先生の授業だった。

2010年6月3日木曜日

私の道程8

3月に卒業して迷わず予備校に進んだ。ただ、どこの予備校にするかは大いに悩んでいた(楽しみながら)。ネットなんてない時代。情報はあくまで受験雑誌『蛍雪時代』で情報収集。理系志望だから、ということもあり、両国予備校、みすず学苑、などといった中小の予備校に目を付けていた。ただ、最終的には駿台予備学校を選択した。仙台での試験(予備校の受験?!)を受けて、晴れてお茶の水の本校に、となったのである。当時は、まだ山形新幹線が開通していないから、まだまだ東京は遠かった。福島まではL特急に乗り、東北新幹線に乗り継いでの小旅行。東京の路線図を片手に一人での日帰りだった。50万ぐらいだったかの入学金を現金で持ちながら、入学手続きに行った日を昨日のように覚えている。
家を離れるには住居の問題が当然ある。予備校生ということもあり当然にして予備校の寮にした(これには後日談あり)。
とはいっても、4月の上京は不安でいっぱいだったと思う。あまり記憶はないが。ただ、合格するまでは帰ってこないよ、なんて威勢のいいことを言って旅立った。
ちょうど、中学時代からの親友S.H君も予備校進学のため上京する(こちらは、父親の仕事の関係で親子で上京)こともあったので、「独りぼっち」という思いはなかった。
余談だが、このとき(91年4月)、都庁が新宿に移転し、また鈴木俊一氏が磯村氏を破って4選を果たした。上京する朝はまさに鈴木が当選を果たしたその日だったことを覚えている。

結果として、この年が私と東京(都会)との付き合い、葛藤……の始まりとなった。北大に進むまでの1年間の付き合いのつもりだったのに。

2010年6月2日水曜日

私の道程7

とにかく、高校を出たかった。山形から出たかった。その一心だったような気がする。
いつからか、浪人を大前提にしていた。現在の入試制度はちょっと違うだろうが、当時(91年)は、国公立は「分離分割方式」とか呼ばれ、前期日程・後期日程などと言われていた。前期日程でどこかを受け、そこがダメなら後期日程で別の大学を……、というのが単純化した分かりやすい説明だろうか。
私は、前期は、初志貫徹、という意味で北海道大学の理Ⅰ(理学部系)を受けた。模擬試験では、良くてB判定、通常はC判定程度だった。受験ははるばる列車で行った。旅行気分だったのか、今は亡き祖父と二人で出掛けた。山形から札幌までだから半日以上かかったと思う。試験の記憶はあまりない。車窓から見る景色が、岩手、青森と違い、北海道は明るく感じられたことが、何とも不思議であった。寒々しい寂しさ、がないのである。
北大の結果は、「桜散る」。まあ、予想通り、とは言え、ちょっと悔しかった。
落ちたから、どうするか。浪人のつもりだったが、後期日程で、ということで弘前大学理学部を受けた。旧制弘前高校の流れをくむ校風、弘前というイメージから、私の中では以前から候補の大学ではあった。3月10日過ぎだったと思うが、北大と同じく、またまた福島経由の東北本線陸路で出掛けた。試験のことなどあまり記憶はないが、弘前グランドホテルに一人泊まって、歩いて受験上まで行ったことは覚えている。それと、弘前駅前で、受験生対象の案内があって、そこで「山形から来たんですが……」と道順とかを訪ねたとき、「訛っているね」なんて言われたのも懐かしい。
結果は、合格だった。でも、合否が決まる前に予備校行きを決めていた。父は、心のどこかでは弘前に進んでほしかったのかもしれない。東京で浪人生活など送らせたくなかったのかもしれない。
私としては、ただただ中途半端であると感じていた。無駄な時間を過ごしたとしか感じていなかった。とにかくもっと「きちんと」勉強したかった。それも自由な空間で。
そういう意味でも、多くの同級生が行くであろう、河合塾仙台校、代ゼミ仙台校は、念頭になかった。決して「都会」「東京」に思いがあったわけではない。
そういえば、こんなことがあった。浪人を正式に決めた後、高校の担任から電話があった。熊本大学(だったか?)が2次募集するから、受けてはどうか、ということ。私の将来を真剣に考えてくれて、ということではないと思う。とにかく、国公立に現役で何名受かるか、というのが高校としての数値目標にあったための対応、だったのではなかろうか……。

2010年6月1日火曜日

私の道程6

中学を終えると、米沢興譲館高校へ進んだ。一応、地元の進学校、となっていた。結論を言えば、楽しくない、暗黒の3年間であった。大学に入ることが至上命題とされた生活に何の潤いも感じられなかった。その後、大学進学などで多くの友人と高校時代の話をしたが、本当に羨ましく感じたのを覚えている。もちろん、そのような3年間を送った私自身にも責任はあろう。だが、である。10代後半の多感な時期、若者が目を輝かせて学ぶことを、大人はサポートすべきではないか。そういった環境を作るのが教師の役目ではないか、とつくづく思う。とにかく、現役で国公立大へ、と「洗脳」し続ける教育だったように感じていた。つまり、できる奴は東北大へ、さもなくば山形大へ。こういう考えが蔓延していたのである(東北大、山形大それ自体に問題はないが)。かと言って、運動もやれ、という暗黙の空気も漂っていた。そう、文武両道という目標である。授業が終わって、そのまま家に帰ることは憚れた。でも、結果としてそういう教育は、金太郎飴のような人間を片っぱしから生み出すだけではなかったか、と思うのである。

2年生からは文系と理系コースに分かれ、私は理系を選択。好きだから、興味があるから、というより、理系科目のほうが成績がいいから、というだけ。安易な選択であった。
誰もが東北大を目指すことへのかすかな抵抗として、北海道大を志望していた。火山のこと、地震のことを勉強したいな、と思っていた。無理矢理作った目標とも言えたのだが。
そういえば、気象大学校を受験したのもいい思い出だ。文部省管轄でないため、センター試験などとは無関係。仙台地方気象台の会議室が受験会場だった。となりには観測機器が置いてあったりした。試験問題もユニークだった。たしか、数学の問題も、x 軸、y軸、z軸を、緯度、経度などと関連させて、といったように、天体と関連させていた。もちろん、全国15名の合格者に入るわけはなかったが。