2010年5月24日月曜日

私の道程2(保育園、小学時代)

歩いて数分のところにあった市立保育園に通った(決して共働きの家庭ではなかったが、なぜか許されたのだという。都市部と違い、待機児童などという言葉とは無縁の地域、時代、だったと言える)。この、5,6歳の記憶はほとんどない。父方の祖父・新吾の見舞いにベッドを訪れたことだけがかすかに思いだされるくらいだ。ただただ、2歳下の弟と二人で泥んこになって遊んでいたのだろう。今の、インドア派の私からは全く想像できない。
小学校も歩いて10分程度のところにあった。地域におけるマンモス校。一学年200人近くいた。決してやんちゃな坊主ではなかったが、少しばかり「お勉強」も出来たため、学級委員長などをしていたことを思い出す。
小学校4年生の時の将来の夢に、「国会議員」と書いていたこと、小学校6年生の卒業文集に、尊敬する人として「宮澤喜一」と書いていたことから、だいぶ変わっていた、マセテいた子であったことは確か。その一方、みんなと一緒、であることが暗黙に求められていたのか、好きでないスポーツをやっていた。徒競走など常に「ビリ」なのに、そんなに体育が嫌いで
なかったのは今でも不思議である。中学受験があるわけでもない。小学校の隣の中学校に全員がそのまま「進級」。のどかな小学生活だったと思う。

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