2011年7月31日日曜日

『ちいさな哲学者たち』

『ちいさな哲学者たち』という映画を観てきた。
「ちいさな」というのは、幼稚園児のこと。
そう、5,6歳の子どもが、「愛って?」「自由って?」「死って?」などと語り合うのだ。
これは、ドキュメンタリーであり、フランスにあるジャック・プレヴェール幼稚園(この名前がまたいい!)での実際の授業を撮影したものである。
初回では、何にも話せず、無言の空気が流れていた。それが、回を重ねるごとに、園児は饒舌になる、適当な言葉を探りながら、隣の友達を時には遮り、発言する。そしてそれに対する、反論と同意。勿論、睡魔に襲われる園児も・・・。
対話を繰返すことの重要性、そして面白さを、園児たちは自然に感じるようになったのである。
こうした取り組みが出来る背景には、やはり、「哲学」を重視するフランスというお国柄があるのは確かだろう。
園児と共に、この映画の主人公とも言える、パスカリーヌ先生の事前の準備は並大抵のものではなさそうだ。子どもだからといった手抜きは一切ない。子どもに対して真摯に語りかける。一語一語を大切に口にしていた。そう、大声で怒鳴ることの無意味さをも我々に教えてくれている。

東京の新宿武蔵野館ほかで公開中。
http://tetsugaku-movie.com/

小社の1冊目となる、『指導者はこうして育つ――フランスの高等教育:グラン・ゼコール』は、フランスのおける「哲学」の位置づけが紹介されている。
タイトルにはないが、フランスの小学校、中学校の授業の様子も。
2200円+税で、9月上旬には刊行できそうです。

2011年7月20日水曜日

安達峰一郎博士書簡集を手にして

安達峰一郎という人物を、もっともっと世に広めたい。そんな思いでいるのは、私自身が山形の生まれだからだろうか。
常設国際司法裁判所長を務め、亡くなった時はオランダ国葬をもって送られた、「世界の良心」である安達博士。
そんな人物なのに、一般的な知名度は低いのかもしれない。山形県でも、誰もが知っている偉人、という位置づけではない。福島の野口英世、とは比較にもならないだろう。残念でならない。

大学時代に、国際法という講義を受けたものの、もちろんそこで安達の名に接したことはなかったと思う。その後、こうして政治や歴史関係の本の編集に携わるようになると、端々にその名を発見し、ひとり悦に浸っていたような状況だ。

このたび、安達峰一郎博士の書簡集が、地元山形県山辺町(やまのべ、と読む)の教育委員会から刊行されたと知り、急ぎ購入した。
書簡のみをただ単にジョイントしただけでない1冊である。それこそ、国際法、などというものに縁のない人々でも、読めるように工夫がされていた。そして、「本書を読むための予備知識」などと言うページもあり、候文の読み方まで伝授。
編集感覚の優れた1冊であると感じた(私も見習わなければ)。
彼の生い立ちから順に章立てがしてあり、書簡の合間に解説もあり、ゼロから安達を学ぶには最適と思う。通勤の車中で候文を読んできたが、将来の妻となる鏡子への面会依頼(付き合いの申し込み?)の書簡などもあり、飽きることなく、全く居眠りをさせてくれなかった。

いずれ、安達峰一郎に関する本を、編集者として手掛けることができれば、この上ない幸せである。

ちなみに、安達のほか、私には、山形にゆかりのある意中の人物があと二人いる。
結城豊太郎と我妻栄。
いずれ、編集者として、この3人に関わりたいと強く願っている。

2011年7月10日日曜日

「南スーダン独立」のニュース

9日付の朝日新聞の夕刊1面の左端に、「南スーダンが独立」との見出しを目にした。
よくよく考えれば、ビッグニュース。アフリカでは54か国目の国家だという。
「南」があるなら、ただの「スーダン」が当然あるはずで……、なんていう基礎的なことすら、知識はあいまい。
世界は、刻々と変わるという当たり前のことを実感。
そういえば、震災前、リビアのカダフィ大佐が紙面を賑わしていたが、その後の動きはちょっと忘れ去られてしまったような。

(ちなみに、トップニュースは、高校野球が宮城で開幕したこと。カラー写真入り。)

2011年7月8日金曜日

今日で100日目

あっという間の100日だった。4/1に社を細々とスタートさせてから、今日8日が100日目。心身ともに元気に迎えられたことを嬉しく思う。まだ本を送り出せていないので、半人前であるが、出せる見通しが立った、というだけでもまずは合格点を自分にあげたい。ちょっと甘いかもしれないが。
この100日間、多くの人に出会ったことが何よりの財産。人と会うたび、自らを省み、反省し、また次への課題を見つける、そんなことの繰り返しだった。「○○の吉田です」とは言えなくなった。「吉田と申します」と、真正面からぶつかる日々。組織に属さないということは、人間“丸ごと”試されるのだな、と実感。
そして何より、1分1秒をどう過ごすか、試されていることを感じる。
明日からも、元気に頑張りたい。(と、理由を付け、今日は早めに就寝します)

2011年7月6日水曜日

村長と司祭とパン屋さん

「フランスではパン屋さんは、村の中で最も重要な人物3人のうちの1人です。村長と司祭とパン屋さんですね。毎日のように会う人達だし、その地域で重要な役割を担っています……」(NHKテレビテキスト『テレビでフランス語』7月号)という言葉に出会った。フランス人のパン職人の話である。そして、「特にパン屋さんは朝一番に会う人で、たいてい一日の最後に会う人でもあります。だからお客さんとの独特なコミュニケーションがあって、それもこの仕事の魅力ですね」と。
此方、今の日本の場合は、どんな職業になるのかしら。まさか、村長とお坊さんとお米屋さん、といった時代もあったのだろうが。

2011年7月3日日曜日

くどいようだが、「スーパークールビズ」にもう一言

7/1(土)の東京は、前日までの猛暑日とは違い、風も爽やかな一日だった。
節電対策としての土曜出勤がスタートした、というニュースが夕刊やネットで報じられた。
時事通信配信の記事によると、環境省では、江田大臣も登庁し、「沖縄で夏に着用するかりゆし姿で、『頑張ってください』などと勤務中の職員を激励し」「記者団に、『今の電力事情に対応するため、知恵を総動員する』と述べ、今後も率先して節電対策に取り組む考えを強調した」とのことだ。
そもそも、輪番勤務が妥当かどうかの議論はおく。

1)かりゆしを着る必要性はあったか?
2)大臣が、庁内を廻り、それを撮影させる必要はあったか?
3)「頑張ってください」などと、言う必要があるか?

私見は以下の通り。
1)少なくとも、1(土)は前日までと比べものにならないほど涼しかった。かりゆしまで着る必要は全くなし。江田氏が毎年愛着しているなら別だが。どう見てもパフォーマンス。
2)勤務時間中である。通常通り仕事を淡々とする、これが公務員。そこに、大臣がカメラとともに来るのはよほどの事態!? のはず。今回は異常事態なのか?
3)ついつい出た言葉だろうが、輪番勤務、ということでの出勤。そういう約束で来ているわけで、決してサービス休日出勤ではない。「頑張る」ものではない。どうしても部下に声を掛けたいなら、「国民のため、精一杯仕事に励んでくれ」かな。

やはり、「スーパークールビス」を、行政が音頭をとること自体が間違っているのではないかと思う。一民間企業がビジネスとしてやるならいい。バレンタインデーを、チョコ販売のテコ入れとして菓子業者が広めたと言われているように……。

環境省がやるべきこと、知恵を総動員すべきことはほかにもっとある。くどいようだが、「スーパークールビズ」の普及活動などを、行政が税金を使ってまでやることではない、と強く思う。
なぜ、そこまでこだわるか、と言われそうだが……。
恐れるのは、若い職員がこんな仕事に嫌気がさして辞めてしまうこと。そして、組織全体として、地に足の着いた仕事に取り組む雰囲気が少なくなることである。
目に見える政策、分かりやすい政策、短期間で効果の出る政策、が求められる傾向にある(私自身、6年間の県庁時代、まさにその連続だった)。トップの任期が4年ある県や市町村はまだいいかもしれない。生徒会の役員のように、まさに輪番制のように大臣をトップに据える国の官庁はそうした傾向にあるような気がしてならない。
節電対策の隆盛ぶり、はそのことと関係があるような気がしてならないのだ。「スーパークールビズ」は特に。

2011年7月2日土曜日

テレビをどうするか

我が家のテレビは、未だアナログ方式。2001年に山形で購入した21型のブラウン管テレビが鎮座している。3.11の地震のときは床に落ち(ブラウン管のテレビが床に転げ落ちるくらいの揺れだった!?)、画面に傷までついた。にもかかわらず、買い替えの意欲がわかずにいる。


テレビなんて、なければ観ないのではないだろうか。

娘が幼稚園に進むころ(5歳)までテレビを見せずにいた。さすがに、幼稚園に進んだあたりから、どうしても廻りの友達との会話についていけなく、彼女なりに「テレビ」の存在を知ったようなのだ。その後は、少しずつ観始めたものの、小学校に入った今も、同年代に比べればテレビとの接触時間は少ないのでは、と思う。
人に誇れるような育児はしていないが、あの5年間の「テレビ隔離政策」だけは正解だったと今でも確信している。

ここまできたなら、これを機にテレビなしの生活に変えるのもいいかと本気で思っている……。

確かに、私自身、一日を振り返っても、平日なら、朝はラジオのみの生活だし、日中は仕事、それで帰宅時間が遅ければ、結局は接触なし。
しかし、あるのに観ない、のと無くて観れない、のでは大きく違うのかもしれない。
どう決断するか。

2011年7月1日金曜日

何かがおかしい、この「スーパークールビズ」

3.11以降、世の中の雰囲気が変わったような変わっていないような。
変わった、と思ったこともあったが、実は何も変わっていないのではないだろうか。
私たちの社会は、どんなことも、すべて、「横並び」「右倣え」の風潮があるのではないだろうか。

大きな事件、事故が起きるたびに、「基準」を作ることに嬉々としている人たちがいるのではないか、そう勘ぐりたくなる日々だ。

一つの方向に社会全体が流れるこの雰囲気は何だろう。そういう意味では、相変わらずの光景だと思えるのだ。
一つの例として「スーパークールビズ」
この“ブーム”も、数年前の「クールビズ」の延長と考えれば、相変わらずの我々の行動様式、と言えないだろうか(そう、あのときは、私も県庁職員だった。いろんな文書が回覧されたものだ。いくら寒くてもネクタイをしてはいけない、そんな雰囲気すら漂っていたような……)。
服装ぐらい、個人個人が自らの判断で決めることができないだろうか。小学生の子供すらできることだ。決められたから、許可されたから、ということで衣装を決める、こんな屈辱的なことを受け入れるとは……。横並び主義以上の何物でもない。そんな決まり事を策定する前に、やるべきことはいくらでもあろう。役所にしても、企業にしても。
自分で自分に課題を与え、それに取り組んで、仕事をしたという満足感を得る、そういったことに我々は慣れ切っていないだろうか。
「いやあ、大変ですよ」、と口にしたがっている人が多すぎやしないか。
サンダルで通勤という人が、インタビューに答えていた。大手企業に勤めている社員の顔、なんか生き生きしていないか……。
未だに、この暑さで苦しんでいる避難所の体育館でいる人たちの思いとの落差を考える。
些細なこと、と言う考えもある。しかし、こういった積み重ねが、いろんな不祥事、の底辺にあると思うのである。自分で考え行動する、という根本。

最後に一言だけ。
暑かったらネクタイを外す、半袖にする、ジャケットを着ない、単純なことだ。
そもそも、ネクタイ、だって習慣にすぎないではないか。