2011年6月26日日曜日

「文学」のちから

本作りの仕事に携わっていながら、どれだけ文学に寄り添っているか、と問われるとはなはだ心許ない。
小学、中学、高校、と国語は不得意科目の一つであった。かと言って、決して嫌いではなかった。点数はよくなかったが、教科書を読むのは好きだった記憶がある。今に至っても覚えている授業は、数学や理科より国語だったりする。
大岡昇平を、矢内原伊作を好きになったのも高校の国語の授業がきっかけだ。
ちょっと、言い訳じみたが、決して私は文学を「軽んじて」来たわけではない。しかし、いつも後回し、だったことは素直に認めなくてはいけない。
小説読むより新聞読んだほうが、小説なんて「作り話」読むよりノンフィクションのほうが……。そんなことを口走ったことも過去にはあった。
そして、社会で働くようになってからは、つねに、贅沢モノ、という位置づけだった。
しかし、この震災でちょっと考え方が変わった。
3.11後、呆然とした中で、ついつい手にしたのは詩集だったり、昔読んだ宮沢賢治の本だったり、そんな人が多いと聞く。
そして、先週、あるかたに出会って、ますます考えが変わった。
文学を生業にするかた、にお会いした。芥川賞を受賞なさったかた、と言えば、一般的には伝わりやすいだろうか。
何の面識もなかったのだが、お手紙を差し上げ、週に二度もお会いさせていただいた。
その方は、私に、文学の力、を切々とお話になった。そして、東北と文学、ということをおっしゃった。
石川啄木、宮沢賢治、太宰治、柳田國男……。
わがふるさと山形にも、すぐれた文学作品は多い。
私は、真壁仁、という一人の詩人がどうしても気になる。
「文学」こそが、人に生きる力を与え、そして向かうべき指針を与えてくれるのではいだろうか。いずれ、読み手としてではなく、送り手、として文学に関わりたいものだ。

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