2010年7月14日水曜日

私の道程18(大学3,4年。就職先決まらぬまま卒業へ)

無事、法学部政治学科への転部を果たした。直前になって、本当に大丈夫だろうか、なんて遅まきながら不安になった。どこにも保障はないのだから。学部事務室の職員のかたに直接「合否」を尋ねた気がする。まさか、掲示板での発表などはなかったはずだし。
4月になったらほんとうに怒涛の時間割だった。普通の人ならある程度の必修科目は1,2年時に履修済みのはず。政治系の科目はまだしも、法律系の必修科目はたいへんだった。基礎が分かっていないわけだから。当時はとにかくジャーナリズムの世界に進みたいという一心で、法律系科目は軽視していた。民法、刑法をきちんと学ばなかったのは後々悔やまれるのだが、憲法(石川憲治先生)、行政法(兼子仁先生、磯部力先生)、国際法(森田章先生)などは手元に受講ノートが今でも残っている。石川先生の憲法は「高尚」だった。兼子先生の行政法は、「行政法は図解可能」ということで、きれいな板書とともに分かりやすかった。
政治系の科目はほぼすべてを受講した。半澤孝麿先生の西洋政治思想史ゼミに入ったが、それこそ右も左も分からず毎週土曜日のゼミに参加した。登山を趣味とする半澤先生の提案で、ゼミ終了後にその足で高尾山へ訪ねたことも思い出のひとつである。「民主主義」をテーマにしたものだったが、ジョン・ダン『政治思想の未来』を皮切りに、トクヴィルの『アメリカの民主主義』、シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』などを講読した。この手の本を読むのは生まれて初めてだったかもしれない。
当時の都立大は、昼夜開講制といって、昼間部(A類と称していた)の者も夜の講義も受講できたので、朝から晩まで時間割が埋まった。最後の授業が終わるのが21時10分だったかと思うが、当時は人影もまばらで開発途上だった、八王子の“奥地”南大沢駅からアパートのある下高井戸までの京王線の車中は、疲労感や寂しさよりも、「今日も勉強したなあ」という満足感のほうが勝っていたような気がする。
途中から入り込んだということもあり、法学部内に特定の友人が出来なかったことが、唯一のそして最大の心残りかもしれない。
前に述べたように、ジャーナリズム界への進路を第一に考えていた。マスコミ志望者は、当時でさえ、大学3年の秋ごろから準備をしなければいけなかった。ただ、3年時に内定、なんていうことではなく、あくまで4年の春の試験へ向けた勉強会への参加、と言ったらいいのだろうか。マスコミ対策講座、と称した作文の書き方練習などである。これは勉強になったし、刺激になった。最初のころはまったく書けないのだ。情けないくらい原稿用紙の升目が埋まらなかった。みんなで読み合いながら講師の講評を聞くわけだが、今にでも記者になれそうな人がいるわいるわ。でも、良い文章を読むことで、コツ、といったものを掴んだような気がした。例えば、「わが国の100年後」なんていう題で800字を書く場合、決して大上段に構えた内容にしてはいけない。自らの経験などに引き寄せて、具体的な事柄から書き起こすのである。例えば、100歳の祖父母がいれば、彼らを題材に、、、といった具合である。
大学4年の5、6月の土日は、各新聞社の試験で埋まった。1次の筆記で落ちた社もあれば、2次、3次の面接まで進んだ社もあった。しかし、結局どこも受からずに秋の試験も終了したのであった。

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