2011年11月20日日曜日

「こだわる」に、こだわる

「……そもそも売り物って、こだわって、こだわりぬいて、作り続けなければいけないものなんだろうか。みんなが求道者のようにならなければいけないものなのだろうか。もっと適当に作ったものが、十分に売れ続けるほうが、作り手売り手として、ゆったり平和に暮らしていけるんじゃあないか……」
『読売新聞』11月18日付け夕刊(東京)に、ルポライター・イラストレーターの内澤旬子さんが書いている。
商品広告で「こだわりの」とうたっているのを見ると、げんなりする、と。

確かにそうかもしれない。私も賛成だ。「こだわる」のは自由だが、それを自ら口にしてしまうのには、抵抗がある。
居酒屋のメニューで、「こだわりの一品」なんて目にすると、へそ曲がりの私は、別の品を頼んでしまう。ごく普通の、刺身三点盛り、で充分。

そもそも、「こだわる」という言葉の意味は、否定的な感じが第一義的なんだと、これも、誰かのエッセイで読んだことがある(私の記憶が間違いなければ、俵万智さん)。
手元にある国語辞典を引いても、「①そればかりを(いつまでも)気にする。②〔自分なりに〕細かいことがらについて主張を押し通す」(三省堂国語辞典、第5版、2001年)と出てくる。もしかしたら、言葉の意味も世につれ変化するから、最新のものでは説明が異なっているかもしれないが……。

このことは、本の送り手、としても考えさせられる。
書き手の方と一緒になってどんな本作りを目指すべきか。

すくなくとも、送り手が、この本は「こだわって作りました!」と叫ぶのはいかがなものか。
具体的に、本の内容、カタチ、を具体的に説明することが求められるのだろう。
そういう意味では(語弊をおそれずにいえば)本も、食べ物も、商品としては同じだと思う。

こんなことに、こだわる私自身が、こだわりすぎの人間かも。

追記
そういえば、「適当に」という言葉も、「いいかげんに」と解釈されてしまいがちだが、「よくあてはまること」「ちょうどいいこと」というのが本来の意味のようである。
冒頭の引用、内澤さんも、そういう意味で、「適当に作ったものが」と述べているのだと思う。

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