2010年5月23日日曜日

紆余曲折、これまでも、そしてこれからも?(わたしの道程1)

今年で38歳になる。
千葉県八千代市に、妻(みちよ)と娘(真喜)と三人で暮らし、神保町の出版社で働いている。
なぜ、この家で、この人と暮らし、この社で、あの人と働いているのか?
振り返ると、「夢」、「憧れ」に向かって一途に進んできた結果、ではない。
気がついたら、そうなっていた、という情けない有様。まさに紆余曲折だった……。

日本経済評論社、という名の会社に入って、この7月で丸2年。
他の出版社からの転職だった。出版社としては3社目だ。
では、業界にも熟知し、本作りももうプロ級? と言われれば、つらい。
28歳から34歳までの6年間は山形県庁で公務員生活。

こういったことを話すと、多くの方から、「公務員を辞めるなんて思い切ったね」
「好きなことにチャレンジするなんていいね」「役所とはまったく違う世界だから頭を切り替えなきゃね」「この業界は斜陽産業なのにね」
などと、励ましとも脅かしとも取れる言葉をいただく。

これまで、ただただ世の流れに身を任せてきたわけでもない(「紆余曲折」だけど)。
一応、当時としては、悩みぬいた決断をしたつもり。
平均寿命を考えればまだ人生の半分にも満たない。これからどう生きていくのか。
とにかく、楽しく、笑顔を絶やさず生きていきたいものだ。
少し、頭を整理するため、これまでの経過(「人生」などと仰々しくは言えない)を
振り返ってみたい。

私は、1972(昭和47)年11月9日、山形県南陽市に生まれた。父・堅治、母・範子の一番目の子として。堅治は高校の数学教師、母は専業主婦。2年後の74年には弟の大治が生まれる。
この4人で「吉田家」。
南陽市とは、山形県の南部に位置し、赤湯温泉で少しは有名かもしれない。山形新幹線の「赤湯駅」である。私の育った家は、その赤湯駅から、徒歩15分ほどの住宅地。今では郊外型のショッピングセンターが近くにあるが、少年時代は、田んぼに囲まれた土地だった。稲刈り後に、田んぼで野球をしたぐらいだ。
今でも両親はその家に住み続けている。築35年。どうみても快適そうではないが、もともと物欲のないタチ。父などは、「あと何年生きれるかわからないのに建て替えなんて」と。
年に一度か二度、帰省するが、やはり生まれ育った家があると言うのは、有難い。

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