2010年6月2日水曜日

私の道程7

とにかく、高校を出たかった。山形から出たかった。その一心だったような気がする。
いつからか、浪人を大前提にしていた。現在の入試制度はちょっと違うだろうが、当時(91年)は、国公立は「分離分割方式」とか呼ばれ、前期日程・後期日程などと言われていた。前期日程でどこかを受け、そこがダメなら後期日程で別の大学を……、というのが単純化した分かりやすい説明だろうか。
私は、前期は、初志貫徹、という意味で北海道大学の理Ⅰ(理学部系)を受けた。模擬試験では、良くてB判定、通常はC判定程度だった。受験ははるばる列車で行った。旅行気分だったのか、今は亡き祖父と二人で出掛けた。山形から札幌までだから半日以上かかったと思う。試験の記憶はあまりない。車窓から見る景色が、岩手、青森と違い、北海道は明るく感じられたことが、何とも不思議であった。寒々しい寂しさ、がないのである。
北大の結果は、「桜散る」。まあ、予想通り、とは言え、ちょっと悔しかった。
落ちたから、どうするか。浪人のつもりだったが、後期日程で、ということで弘前大学理学部を受けた。旧制弘前高校の流れをくむ校風、弘前というイメージから、私の中では以前から候補の大学ではあった。3月10日過ぎだったと思うが、北大と同じく、またまた福島経由の東北本線陸路で出掛けた。試験のことなどあまり記憶はないが、弘前グランドホテルに一人泊まって、歩いて受験上まで行ったことは覚えている。それと、弘前駅前で、受験生対象の案内があって、そこで「山形から来たんですが……」と道順とかを訪ねたとき、「訛っているね」なんて言われたのも懐かしい。
結果は、合格だった。でも、合否が決まる前に予備校行きを決めていた。父は、心のどこかでは弘前に進んでほしかったのかもしれない。東京で浪人生活など送らせたくなかったのかもしれない。
私としては、ただただ中途半端であると感じていた。無駄な時間を過ごしたとしか感じていなかった。とにかくもっと「きちんと」勉強したかった。それも自由な空間で。
そういう意味でも、多くの同級生が行くであろう、河合塾仙台校、代ゼミ仙台校は、念頭になかった。決して「都会」「東京」に思いがあったわけではない。
そういえば、こんなことがあった。浪人を正式に決めた後、高校の担任から電話があった。熊本大学(だったか?)が2次募集するから、受けてはどうか、ということ。私の将来を真剣に考えてくれて、ということではないと思う。とにかく、国公立に現役で何名受かるか、というのが高校としての数値目標にあったための対応、だったのではなかろうか……。

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