2010年6月10日木曜日

私の道程12(充実した予備校生活)

予備校での一年間は、毎日が淡々とした生活であったが、充実していた。何ら不満もなかった。それは、「希望」を胸に抱き続けることができたからだったのではないか、と今になって思う。とにかく未来が明るく見えた。一日一日が、確かな一歩を踏んでいると実感できた。もちろん、それはあくまで幻想だったのかもしれない。が、人間にとって、前向きな思考が重要であることを、改めて認識する。
朝は、6時に起床。テレビがないからラジオを聴きながら登校の準備。もちろん、朝ご飯はなし。いや、コンビニのパンぐらい食べていたかな。東武伊勢崎線の越谷駅から、7時前の電車で出発。途中、北千住で千代田線に乗り換えて8時ちょっとすぎに駿台お茶の水校に到着。あとはひたすら授業を受け、夕方には帰宅。夕食は惣菜などを買って食べたり、外食だった。肉嫌いの私は、外食となると、だいたいメニューが決まる。まさか、寿司やてんぷら、ウナギなんて食べれるわけがないから、アジフライ定食、「肉抜きの」タンメン、などといった具合。ひとりで食堂に入ったことなど、山形では皆無。この一年間は、そういう意味でもすべてが初体験だった。
夜は、ひたすら机に向かった(はず)だが、死に物狂いで、という記憶はない。とにかく、予備校に行くのが楽しかった。勉強の合間の楽しみ、と言えば、「映画」だった。予備校で知り合ったO君に誘われたのである。それまで、「映画」なんて縁遠い生活だった。小学校の頃、母に連れられはるばる県都の山形に『南極物語』を観に行ったのが最初で、それ以降は本当に数える程度。それが、いきなり有楽町マリオン。いや、驚いた、ふかふかのソファに。彼は都立高の出身で、高校時代から伸び伸びと過ごしてきたことが明らか。視野が広かった。チェコの初代大統領にして劇作家のハヴェルの存在を教えてくれたのも彼だった。O君とはこの1年間とても楽しく過ごした。彼の家にもお邪魔したり、長電話したりと。
あっという間に受験シーズンが近づいた。当初は、地学系の希望だったが、この1年で数学科志望に変わった。父が数学教師であるということから考えれば「順当な」路線かもしれないが、やはり、予備校での授業がそうさせたのかもしれない。で、どこを受けるか。
「初志貫徹」で北大を受けるつもりだったが、東京での生活も捨てがたいという思いや、2浪は全体に避けたい、という切実な願いがあった。北大と都立大を受けることにしたわけである。そして、「理学部数学科」という名称が存在する都内の私大。つまりは立教と学習院に併願した((私のなかでは、「理」学部であることへのこだわりがあった。だから「理工」学部の数学科は選択肢になかった。今から思えば、まったく変なこだわり)。立教は、名著『零の発見』の吉田洋一氏、学習院は小平邦彦、彌永昌吉氏の伝統に惹かれたのである。
結局、都立、学習院、立教の3校に受かり、都立を選択。
充実した、という思いは、やはり、この満足した結果によるものなんだろう。そういう意味では、「受験生」というのは、結果でしか振り返られない、ある種悲しい、寂しい(いや、考えようによっては贅沢な)身分なのかもしれない。
いずれにしても、その後の生き方に大きな影響を与えたことは間違いない。
そういえば、受験時代、「宅浪」だけはやめよう、なんて言っていた。だって、「ヨシダ タクロウ」になるから。

0 件のコメント: