2010年6月5日土曜日

私の道程10

3月まで山形でのんびり過ごしていた18歳の私にとって、4月からの東京での生活は急激な変化であった。
駿台予備学校の寮は総武線下総中山駅近くにあった。テニスコートも併設した立派な寮であった。一人部屋で間口は1メートルもあったろうか。学習机と小さなロッカー、そしてベッドがあるだけ。孤独な感じがした。誰も知り合いがいないわけだから当然と言えば当然。
1カ月ももたなかった(耐えられなかった)。そう、寮生活に馴染めずにやめてしまったのである。もう少し「頑張れば」、と今になって思うが、当時はとにかく「ここを出なければおれの一年はおかしくなる」なんて思い詰めていた。携帯なんてない時代だから、連日、駅の公衆電話から実家へ連絡して親を説得。そして、4月の下旬には「脱出」。今思えば、父も母もそんな息子をどう見ていたのか、よく叱らなかったものだ。
「脱出先」は、中学時代の親友S.H君の家。当時、父上の仕事の関係で親子で久我山に住んでいた。そこに居候を決め込んだわけだ。家財道具などはない。とにかく鞄に荷物を詰め込んで、笑顔いっぱいで出た。もちろん別れの挨拶をするほどの付き合いはない。淡々と退寮したのである。
かと言って居候をずっと続けるわけにもいかない。あくまで独り暮らしのアパートが決まるまでの中継地点、ということで両親もS君のお父さんも了解してくれただけだ。
G.W明け、越谷市のアパートに引っ越した。叔父が不動産屋を営んでおり、物件を紹介してくれたのである。お茶の水まで1時間弱で通学できる、ということですんなり決定した。駅から徒歩3分のワンルームマンション。小さな冷蔵庫と勉強机でのスタートだった。これからが本当の浪人生活スタート、そんな勝手な解釈をして意気軒昂だったのであろう。

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