2010年6月13日日曜日

私の道程14(二人の祖父のこと)

40近くになり、自分の性格や立ち居振る舞いはどこに由来しているのだろう、と時折考える。自分で思ったように行動してきた、誰からも左右されていない、などと強がったところで誰も信じない。節目節目での人との出会い、接触が、その人となりを創るのだろう。親、兄弟、恩師、友人、上司、等々。
ここでは、二人の祖父を、振り返ってみたいと思う。
明治生まれの父方の祖父(吉田新吾)と、大正生まれの母方の祖父(船山辰吉)には共通点が多い。新吾は、私が小学入学前に亡くなったから、一緒に話をした記憶はほとんどない。父や周辺から聞いた伝聞での祖父像でしかない。一方、辰吉は、大正14年生まれであり、私が大学を出るころまで存命だったから、未だに多くの思い出が蘇る。
その二人の祖父には、共通点が多い。まず、二人とも、農家の末男として生まれ、山形県立置賜農学校から師範学校を経て、地元の小中学校長を務めた。そして、お婿さん、であることも共通だ。それ以外にも、
・日本酒好きだが、決して泥酔することはない。チビチビ、盃で静かに飲んでいた。
・長身の細身で紳士的だった(二人とも168センチぐらい。同世代では大きいほうだ)。
・大声を出して人をしかったことは皆無だった。
といった人間としての振る舞い、外形も似ていた。
これは全くの偶然だろう。田舎の小学校の元校長など、権威ぶって、ちょっと小太りで、郷土の歴史などを滔々と語って、、、というのが一般的だ。そんな中、身贔屓でもなく、この二人は違って見えた。これだけは私のひそかな自慢である。
新吾も辰吉も、農学校出身なのに、教師になった。それぞれ、思うところがあったと聞く。農学校を出てすぐ、まだ20歳前に代用教員などとして教壇に立ち、そこで教師と言う職業に目覚め、師範学校で本格的に学ぶ、というルートである。
父方の祖父、新吾の蔵書は、農業関係のものが多かったらしい(私は直接知らない。父からの伝聞)。帝大の農学者が書いた、果樹栽培の本だとか。一方、母方の祖父、辰吉の蔵書は、哲学、文学中心。びっしり書き込みのされた、高坂正顕、河合栄治郎、阿部次郎、安倍能成等の本や、新約聖書、万葉集などなどが蔵に眠っていた。私が、大学に入り、辰吉宛に、「一般教養の「哲学」の授業が面白い」などと書いて送ったら、さっそく、出隆『哲学以前』が送られてきた。もちろん、昭和前期刊行のボロボロの箱入りの本。彼等がそれらをどれだけ理解し、また読み込んでいたのかはわからない。しかし、何がしかの「思い」があったに違いない。もしかしたら、彼らにとって、「学問」とは憧れに近いものであったのだろう。山形県の南部、飯豊町という農村から出た青年にとっては、県都、山形市で学ぶこと、それ自体が夢のようであった。後年、入院先の窓から、山形市街を見ながら、私に、戦前の山形のハイカラさを、懐かしそうに話したのは、そういう一時期を過ごせた幸福感を噛み締めていたのだろう。
こういった人は、当時の日本全国に同じように存在したのだろう。そうした人々が、この国の根っこを作っていたと考えるのは、短絡的すぎるだろうか。
もし、新吾と辰吉がまだ生きていたとして、胸を張って彼らと相対することができるだろうか、そう自問自答せざるを得ない。

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