2010年6月6日日曜日

私の道程11

予備校に入ったものの肝心の住まいを落ち着けなかった1ヶ月だったが、授業そのものは満足のスタートだった。いや、期待以上だった。
駿台の場合、座席が成績順に指定されていた(今の予備校はどうか知らないが、当時、座席が指定となっている予備校は珍しかったのではないだろうか)。私が入ったのは、国立理系αコース。端的にいえば、東工大クラスを目指す人たちの集まりだった。自然に周辺の人たちと会話するようになった。山形の片田舎の人間にとって彼らは初めて出会うタイプ。誰もが「大人」に見えた。建築家を目指して2浪目の人。都立高校時代から駿台に通っているという人、英語以外の外国語を高校の授業ですでに習っていたという人、ニューズウィーク誌を手にしていた人(当時、そんな雑誌があること、私は果たして知っていたかな?)・・・・・・。
そして何より、授業がすべて新鮮だった。これまでの常識が覆された。物理の山本義隆先生、数学の西岡康夫先生、英語の奥井潔先生、などは授業が何より楽しみだった。受験に直結、というわけではない。山本先生の微分積分を使った力学の解法は「美しかった」。西岡先生の「戦略的」「判断枠組み」などという言葉によっていただけかもしれないが、数学の本質を教えてくれた(事実、数学科への入学を決めた要素にもなったかもしれない)。英語の奥井潔先生、長身から語るサムセット・モームの短編の講義は、英語というより国語の授業だったような気がする。
ちなみに、山本先生が学生運動の闘士だったと知ったのはしばらく後だった。もちろん、彼の口から、物理以外のことが発せられたことはない。ひたすら問題を、黒板に解いていく。それを私たちはノートに取る。関西弁の混じった言葉で、式の展開を説明する、それに魅せられる、その繰り返しだった。
しかし、一度だけ、彼が教壇に上がらず、「数分だけ時間をくれ」といったことがあった。教室は何事かと静まり返った。91年のPKO国会のときだ。社会党の牛歩戦術のなか自民、公明、民社の賛成多数で可決したあの国会の翌日の授業だった。彼がどんな言葉で非難したのかはまったく覚えていない。ただ、「君たち受験生にもこういった問題について少しだけ考えて欲しい」、そんな趣旨だったと思う。
話が終わると、いつもの笑顔になって教壇に立ち「物理屋」の姿に戻った。青系のシャツとジーンズ、この格好は1年中を通してまったく変わらなかった。髪型も髭もまったく同じ。そんな風貌に理系志望の予備校生たちは、聞き入った。高校で習った物理はなんだったのか、そう思い知らされた。
その他、数学の秋山仁先生は、当時すでにTVなどで有名になっていたが、授業も分かりやすかった。そして、英語の室井光広先生は、数年後芥川賞を受賞することになる。

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