2010年6月13日日曜日

私の道程13(大学生活のスタート)

1992年4月、東京都立大学理学部数学科に入学した。都立大が南大沢に移転して2年目の春だった。京王線南大沢駅から数百メートルにある広大な真新しいキャンパス。入学式のことなどはあまり覚えていない。数学科は、たった27人。高校の1クラスより小さいわけだ。すぐに顔と名前は覚えられる。少なすぎて、語学のクラスなどは物理、化学、生物、地理学の他の理学部との混合だった。理系ということもあり、当然に受講すべき数学と物理の科目があり、それに英語と第二外国語のフランス語を合わせれば、ほとんどは時間割が埋まった。数学、物理は予習、復習は欠かせなかった。ちょっとでもサボると全くチンプンカンプン。
“大学らしい”数学への憧れがあり、たとえば、デーデキントの『数について』(岩波文庫)などを父から譲り受けたり、『数学セミナー』の購読をスタートさせたり、と数学徒の道に一歩踏み出した気分に浸っていた。しかし、そんな悠長な雰囲気ではなかった。ひたすら高等数学を片っ端から頭に叩き込む必要に迫られたのである。積分記号(インテグラル)がいくつも連なる、高校の「微分積分」の延長であったり、はたまた群、環、位相空間、、、といったような高校数学とは比較しようもない世界がそこには無数に存在していた。そこに、「面白さ」を感じるなど、私には程遠かったのだろう。難しいなあ、そんなため息の連続。
サークル活動はしなかった。運動系などは全く念頭になく、かと言って音楽、絵などへの志向もなかった。友人のM君といろいろと物色したが、これ、といったものがなく、どこにも入らなかった。友人を作る手段、として考えた一面があったが、そこまでして、という思いがあったためだ。実際に、M君という友人ができたから。
漠然とした思いとして、数学教師に“でも”なろうか、と考えていた。父と同じ道をという「安易な気持ち」と、研究者になれるわけないからな、かといって(バブル期の金融工学の影響で数学科出身の進路として一般的になりつつあった)金融機関への就職というのも考えにくかったたためだ。
教職課程も並行して受講したのはそのためである。日本国憲法、教育学、教育原理、道徳教育論などなど。都立大の教育学はある種の伝統があった。山住正己先生が最も有名だろうか。日本の教育学博士第一号であり、文部省廃止論などで論陣を張っていた。そして、国民の教育権論で有名な行政法学者の兼子仁先生もいらした。議論のないように立ち入るほどの資格は私にない。が、教育基本法が改定され、また、戦後65年を過ぎた今、もう一度、冷静に戦後の教育学を振り返る作業は必要だと痛感する(このことは別に稿を改めたい)。
大学1年、2年は、このように漠然と「数学教師の卵」と自らを位置づけていた。

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